【どうする家康】なぜ元康は今川義元の人質に?第1話で描かれなかった知っておきたい史実
元康は好待遇、家臣たちは困窮生活
第1話で義元が「元康よ、そなたは我が子同然」と言ったが、その言葉に沿う待遇だった。半面、義元は元康を手元に置き、岡崎領を管理するほうが得策と計算していたフシもある。当時の岡崎領は義元の植民地に近かった。
元康の家臣たちは義元側の武士たちより、ずっと格下の扱いを受けていた。農民と同じく自らカマやクワを手に取り、田を耕していた。身なりも悪く、義元側の人間を見ると、身を小さくしていた。『三河物語』にはそう記されている。
元康の家臣たちの窮状は第1話でも描かれた通り。広忠の法要のため、岡崎領に帰った元康を出迎える酒井忠次(大森南朋[50 ])たちはみすぼらしかったし、元康を歓迎した宴の料理も質素だった。収穫のほとんどを義元に献上しなくてはならなかったからである。
人質の元康は好待遇を受けていたものの、家臣や領民たちは苦しく屈辱的な日々を送っていた。義元側のための危険な戦いにも駆り出されていた。うまい具合に使われていた。
このため、元康と家臣たちの義元觀 は違った。そんな背景が「どうする――」での元康の行動にも影響してくるだろう。
第1話では寺島しのぶ(50)のナレーションで処理されただけだったが、1558年の元康の初陣は華々しかった。義元側から信長側に寝返った三河国・寺部城主の鈴木重辰との戦いである。信秀は1551年に亡くなっていた。
この戦いで元康は火攻めを行い、勝利を収める。重辰に信長側に付くことを断念させ、再び義元側にした。
義元はこの戦いにおける元康の軍功を高く評価。褒美として三河国山中(現・愛知県岡崎市の一部)の旧松平家領地の一部を返還した。
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