【どうする家康】なぜ元康は今川義元の人質に?第1話で描かれなかった知っておきたい史実

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元康が人質になった理由

 第1話の時代を史書に基づいて振り返ってみたい。まず、どうして元康は今川義元の人質になったのか。背景には乱世プラス松平一族の骨肉の争いがある。

 松平一族は元康の曾祖父・松平信忠の時代から親族が激しく対立していた。元康の父で8代目の松平宗家・広忠は、大叔父・松平定信によって岡崎城を追われてしまう。岡崎城は松平宗家の城だ。

 定信は織田信秀の支援を受けていた。そこで広忠は信秀と対立していた今川義元の力を借りる。そのお陰で広忠は岡崎城への帰還を果たしたものの、信秀の進攻は収まらなかった。

 広忠は対抗策として、尾張国内の大名で刈屋城主の水野忠政と同盟を結ぶ。忠政は信秀に協力することもあったが、独立色が強かった。

 さらに広忠は忠政の娘・於大の方(松嶋菜々子[49])と結婚する。広忠と忠政の関係はより深まった。1542年には広忠と於大の方の間に元康(幼名は竹千代)が生まれた。

 ところが、翌1543年、忠政が他界したことで状況は一変。跡を継いだ次男・水野信元(寺島進[59])は信秀の配下となる道を選んでしまった。

 やむなく広忠は水野家との同盟を解消。於大の方とも離縁した。3歳だった元康は実母と離ればなれになる。

 広忠の不運はそれで終わらなかった。今度は叔父の松平信孝がやはり信秀側と組み、広忠の追い落としを図る。広忠はまた義元を頼った。

 義元は広忠に対し、助けることを了承したものの、条件を出す。「(元康を)人質として差し出すこと」。広忠が義元を裏切らないようにするためだ。この条件を広忠は呑む。

 1547年、元康は人質になるために岡崎城から三河国内の駿府(現・静岡市葵区)へと出発した。まだ6歳だった。

 ところが、途中で三河国の田原城主・戸田康光の手勢に拉致され、信秀のところへ送られてしまう。徳川氏の家伝『松平記』によると、元康は不意に襲われ、船で尾張国に運ばれた。

 康光は広忠が再婚した真喜姫の実父だった。元康にとっては義理の祖父である。おまけに義元側の人間。だが、水面下で信秀に接近していた。

 江戸時代初期に旗本の大久保彦左衛門は著書『三河物語』に「康光殿は信秀に竹千代様を永楽銭1000貫目でお売りになった」と書いた。金銭のやり取りについては信憑性に疑問符が付くものの、幼い元康が親族によって酷い目に遭わされたのは間違いない。

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