再燃する「地下鉄は核シェルター」説… 3つの「鉄道都市伝説」の真相は
(2)大隈狭軌採用主導説
鉄道忌避伝説が鉄道都市伝説界の東の横綱とすれば、西の横綱は「1067ミリメートル軌間を決定したのが大隈重信だった」という都市伝説になるだろう。
鉄道に詳しくない読者のために説明すると、鉄道の線路は2本のレールで構成されているが、このレールとレールの幅を軌間と呼ぶ。世界標準の軌間は1435ミリメートルだが、JR線の大半は1067ミリメートル軌間を採用している。
1067ミリメートル軌間は、狭軌と呼ばれる。字面からも窺えるように、狭軌は線路用地が少なくて済む。また、車両も小型になるので車両の製造や留置するための車庫用地、メンテナンスなどの費用が安上がりになるといったメリットがある。
一方、車両が小さいので輸送力は小さくなり、安定性に劣るのでスピードが出せなくなるといったデメリットがある。
なぜ、日本は狭軌を採用したのか? それは、明治新政府が鉄道建設を進めていた頃にまで話は遡る。
お雇い外国人のエドモンド・モレルは、日本最初の鉄道となる新橋駅―横浜駅間を建設していた際に、政府の責任者だった大隈に「軌間はどうするのか?」と質問した。大隈は鉄道の有用性を認めながらも、技術者ではなかったために軌間とは何かを理解しないまま「日本は国土が狭いから、狭軌でよかろう」と返答した。そのやりとりにより、日本の鉄道は狭軌が採用される。そして、そのまま全国に狭軌の線路が延びていった。
日本の鉄道は、狭軌から標準軌へと改軌するチャンスが何度もあった。しかし、改軌論争は政争の具にもなり、最終的に実現しなかった。結局のところ、国鉄が国際標準の1435ミリメートル軌間で列車を走らせるのは、1964年の東海道新幹線まで待たなければならない。
図らずも狭軌の採用を後押ししてしまった大隈は、後年にそのことを後悔したともいわれる。そして、鉄道関係者や鉄道ファンからは大隈の先見性のなさを断じるむきが多い。
大隈は日本初の政党内閣を発足させるなど、我が国の政治史に名を残す。その一方で、教育者としても早稲田大学を創立するなど、多方面にわたって日本発展の礎を築いた。しかし、鉄道史においては汚点を残した人物として語られる。
大隈の出身県である佐賀県は、大隈を不世出の偉人として顕彰している。筆者は佐賀県庁職員や佐賀市役所職員、佐賀の観光関係者をはじめとした財界人に西九州新幹線(九州新幹線長崎ルート)についてどう思うか? ということを聞いて回っていたことがある。
なぜなら、佐賀県は西九州新幹線に難色を示していたからだ。西九州新幹線が全線開通すると、佐賀県を東西に貫く長崎本線が、並行在来線として第3セクター化されかねない。長崎本線が第3セクターになることを免れても、長崎本線を走る特急列車は大幅に削減されることは確実だった。
佐賀県から九州一の都市とされる福岡市へ移動する場合、長崎本線の特急列車に乗っても、西九州新幹線に乗っても所要時間は大して変わらない。そうした事情を勘案し、西九州新幹線は佐賀県にとってメリットなしと判断していた。
長崎本線の軌間は1067ミリメートルで、西九州新幹線の軌間は1435ミリメートル。軌間が異なるので、新幹線と在来線は基本的に乗り入れができない。佐賀県が直面する西九州新幹線および長崎本線の問題は、郷土の偉人・大隈によって引き起こされたとも考えられる。
[2/4ページ]