勝新太郎が生前語った「唯一、かなわないと思った俳優」、市川雷蔵が涙を流しながら語った身の上話… 俳優・三夏紳が明かす「大映」秘話

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勝さんは後部座席で…

 続く酒席も強烈な洗礼でしたね。勝さんはとにかく「飲め飲め」の一本やり。それも普通の飲み方じゃないんです。ボトルを冷やしておくための、氷を入れるアイスペールがあるでしょ。あれにヘネシーやレミーマルタンをなみなみと注いで、ぐるぐるとみんなで回し飲みするんですよ。その晩は「黒い花びら」で59年に第1回レコード大賞を受賞した大スター、水原弘さんも一緒でした。勝さんは、

「こいつが俺の代わりをやってくれた“中野の勝新”だよ」

 中野に住んでいた私をそんなふうに紹介してくれて、

「今日はお披露目だから、最初の口はお前がつけていい。グッといけ」

 と勧めてきます。その頃まだ飲みつけていなかった酒を精一杯飲みました。きつかったですねぇ。以後、勝さんの子分として、一晩に最低でも4、5軒は飲み歩く夜のお付き合いをするようになりました。

 ただ、飲むと明け方まで帰してくれない。朝9時には現場に行かなければならなかったときだって、

「うちに泊まっていけばいい。で、一緒に行こう」

 と言う。だからベロベロになるまで飲んだあと、ホテルニュージャパンのお部屋にお邪魔しました。

 ところが翌日、当の勝さんは一向に目を覚ましてくれない。ようやく11時頃に起きてくれて、一緒に車で急いで仕事に向かうと、撮影所の門のところに監督から俳優までスタッフがずらっと並んで待っている。勝さんは後部座席でグーグー眠りこけています。にらまれるのは助手席の私。あれはバツが悪かった。

勝新に働いてしまった“無礼”

 71年に大映が倒産すると、勝さんは「勝プロダクション」での活動を本格化させていきました。

 私は私で、渋谷の道玄坂に飲み屋を出しましてね。女の子を7人ぐらい置いた店で、オープンしてすぐに田宮二郎さんとか、後輩の前田吟ちゃんとかが来てくれるようになって。水原弘さんもいらしてくれました。勝さんには、開店から数週間ほどして格好がついてからお知らせしようと思っていたら、すでに耳に入ってたんでしょうね。店の子が「カツという方からお電話です」と言うんです。

 私はてっきり誰かが声色をマネしてふざけていると思ったので、電話に出て、

「何がカツだよ。いいから早く来いよ」

 なんてカマしてやった。

「おい三夏、俺だぞ」

「……え?」

「俺だ。勝だ」

 もう口あんぐりです。すぐに本物だと確信しまして、まさに血の気が引く思いでした。

「お前、いい店やったそうじゃねえか。おミズ(水原弘)なんかも行ったそうだな」

「すみませんッ! すぐにご案内しようと思ったんですが……」

「まあまあ、いいんだよ。がんばれよ」

 ガチャリと切られましてね。あまりの失礼を働いて、もう合わせる顔がないとばかり、それから疎遠になってしまいました。

 以後20年ほど経った96年の暮れ。知り合いの床山さんから「勝さんが会いたがっている」と知らされたんです。その日は私の舞台の発表会見があったので、記者さんには待ってもらって、指定された六本木の蕎麦屋に駆けつけました。ガラッと店の扉を開けて現れた勝さんの第一声は、

「おう、中野の勝新! しばらくだな」

 久しぶりに会えたうれしさから涙をこぼす私に、

「実はな、玉緒と一緒に初めて舞台をやったんだよ」

 そんな近況報告に始まって昔話やらもアレコレなさり、2時間ほど一緒に日本酒を飲みました。

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