勝新太郎が生前語った「唯一、かなわないと思った俳優」、市川雷蔵が涙を流しながら語った身の上話… 俳優・三夏紳が明かす「大映」秘話

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 かつて銀幕スターという言葉には格別の響きと輝きがあった。名画や名優をあまた世に送り出しつつ時代の流れの中で消えた1942年設立の映画会社「大映」は、昭和の邦画黄金期の象徴だ。その大映で新人登用された俳優が語る、巨星二人の味わい深き思い出話。

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 勝さんには撮影所のメーキャップ室で初めてお会いしました。1962年のことです。あのドスの利いた低い声で、

「お前か、俺の代わりをやってくれたのは」

 そう呟いて、ギョロッとした目で私を見る。「こっちへ来い」と言われて近づくと、勝さんばりのツルツル頭をなでられました。

 私はその前日、急に撮影に来られなくなった勝さんの“影武者”を務めたんです。勝さんは、公開予定の「座頭市物語」のポスター写真・宣伝用写真の撮影を優先され、そちらに行かれた。私は少し顔が似ていたもので、ロングショットならバレないだろうと会社に言われましてね。当時リーゼントヘアだったのですが、今すぐ勝さんとおんなじようにツルツルの坊主頭にしろということで、撮影所の床屋で髪を切ってもらったわけなんです。

〈声マネをまじえながら語るのは、俳優の三夏紳氏(81)。大映ニューフェイス15期生として61年に斯界へ身を投じ、日本映画の黄金時代を当事者として目撃してきた生き証人である。

 今年は、71年に倒産した映画会社「大映」の創立から80周年にあたる。松竹、東映、東宝、新東宝と並んで“五社”と称され、黒澤明監督「羅生門」、溝口健二監督「雨月物語」など、世界に名をはせた作品を送り出した。看板スターのひとりが勝新太郎(1931~97)だった。〉

中村玉緒の父から「よう似てるわ、勝ぼんに」

 私はそのとき20歳。勝さんより10歳年下で、養成所を出たばかり。「早く役が欲しい」とあがいていたところ、深夜に「明日来てくれ」と会社から電話がありまして。「こりゃ大抜てきに違いない」なんて喜び勇んで駆けつけました。

 影武者として出演したのは、大映のオールスターキャスト映画「仲よし音頭 日本一だよ」(62年公開)です。長谷川一夫先生、京マチ子、若尾文子、山本富士子……そうそうたる顔ぶれの中に、実は勝さんの偽者がまじっていたわけですね。中村玉緒さんのお父さんの中村鴈治郎さんは、

「よう似てるわ、勝ぼんに」

 なんて声をかけてくれました。

 最初のあいさつのあと、勝さんが「今日は撮影が終わるまで待ってろ」と言います。さっそくその晩、飲みに連れて行ってもらいました。赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、力道山が店内で刺される前年のことです。その上にあったホテルニュージャパンは勝さんの定宿でした。

 車で店に向かう道中、私は勝さんの隣に座っていました。踏切で停車していると、いきなり勝さんが「バカヤロォー!」と怒鳴った。突然のことで、私に向けて言っているのか、運転手に対してなのかもわからない。思わず凍りついちゃって、心臓が止まったような顔をしてたんでしょう。私が勝さんのほうを見ると、

「その目だよ。ショックを受けた表情。これが芝居でできないとダメなんだ」

 勝さんからの最初の演技指導でした。

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