徳川家康は今川家の人質として苦難の少年時代を送った…はウソだった 近年、分かってきた本当の待遇とは
「家康物語」の演出
『三河物語』をはじめとする、家康の生涯を描く物語では、家康は早くに母親と離別し、さらに父を失うなどの多くの苦難に見舞われたと記されている。それは事実だが、今川家の人質時代をその苦難の一つとしているのは、どうやら正しくはないようだ。
もちろん、今川義元から「友好の印として駿府で生活せよ」と言われて、断る自由はなかったろうから、その意味では人質としての意味もあったのだろう。しかし、つらい忍従生活を送ったとか、日陰者のように暮らしていたかのように語るのは、まったくの間違いなのだ。
『三河物語』などの家康伝は、基本的には家康と徳川家の栄光の歴史を描き、その遺徳でもって幕府の支配を正当化するという意図を含んでいる。何しろ家康は「神君」、つまり神として崇め奉る存在なのだから。
そのために多少、話を盛るくらいはしたであろう。架空の人物に大活躍をさせたり、生きていた者を死んでいたとするような改竄や曲筆は簡単に底が割れるのでさすがにできないだろうが、ある程度の演出は許容されたと思われる。人物の伝記というやつは、主人公が何の苦労もせず成功を収めたのでは面白くもないし、誰も感動しない。幾多の苦難を乗り越えた末に成功をつかむというストーリーに人は感動し、その人物に尊敬のまなざしを向ける。「苦難の人質時代」という設定は、おそらくそのための演出だったのだろう。
【参考文献】
柴裕之『青年家康――松平元康の実像』(角川選書)
黒田基樹『家康の正室 築山殿――悲劇の生涯をたどる』(平凡社新書)