徳川家康は今川家の人質として苦難の少年時代を送った…はウソだった 近年、分かってきた本当の待遇とは
「人質」の実態
松平広忠は家康(当時は竹千代)が6歳のとき、織田信長の父・信秀と戦って敗れ、降伏の条件として幼い家康を織田家の人質に出している。これは文字通りの人質だったと見てよいだろう。しかし、その2年後、広忠は謎の横死(おうし)を遂げている。家臣に殺されたなどの所説があるが、はっきりしたことは分からない。そうなると、まだ8歳の家康が松平家の当主とならざるを得ない。
グループ企業・今川家のCEO(最高経営責任者)である義元は、織田家という対立相手との抗争を優位に運ぶため、織田家と国境を接する松平家を重視していた。今は今川家に従属している松平家も、弱い立場の国衆の常として、いつなんどき織田家に寝返るかもしれないのだ。そうなると、対織田戦争は非常に面倒なことになる。
義元は織田家との交渉によって、人質となっていた家康を取り返すことに成功した。しかし、わずか8歳の家康に松平家と岡崎領の支配を任せることなどできるわけもない。義元は子会社・松平家の経営権を一時的に代行し、次期当主となるべき家康をいったん自分のもとに引き取ったのだ。そして、家康を松平家の次期社長……もとい、当主に相応しい人材に育てようと考えたのだろう。
義元は岡崎城に家臣を派遣して、社長代行のような立場に置いた。しかし、実際の領国の統治は、やはり松平家の家臣が行っていたことが明らかになっている。義元は、当主である広忠を失い危機に瀕していた松平家を保護し、家を存続させるための配慮をし、その一環として家康を身近に置いてエリート教育をほどこしたと考えるべきなのだ。
同じ時期、関東の支配者である北条氏康の四男・氏規も、駿河に身を置いて今川家の「人質」となっていた。北条家は今川家と親戚関係にあったので、おそらく家同士の友好関係を続けるために、次代を担う子どもの1人として親戚に預けられたのだろう。やはり人質としての悲壮感とは程遠い。
この氏規と家康は、同窓の学友とでも言うべき関係だった。そして、ともに今川家のもとで元服し、ともに関口氏純という今川家の「御一家衆(一門)」の娘と結婚している。つまり、2人は義兄弟となったのだ。義元の立場から見れば、氏規も家康も義元の嫡男・氏真と年齢も近く、ともに今川グループの明日を担う人材である。だからこそ、一族の関口家の娘を嫁がせたのだろう。
さらに駿府時代の家康は、義元の学問の師であり今川家の軍事指揮官で「軍師」的な役割を担っていたともされる太原雪斎という高僧から直接教えを受け、当時、最高レベルの学問と政治技術を直に学ぶことができたのだ。
とうてい、人質に対する遇し方ではない。
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