徳川家康は今川家の人質として苦難の少年時代を送った…はウソだった 近年、分かってきた本当の待遇とは

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国衆と戦国大名の違い

 話を戻すが、家康は8歳から19歳まで 今川家の人質になっていたと一般的には語られている。しかし、こうした家康の事跡・来歴の多くは、江戸時代に成立した記録や読み物などの記述をそのまま鵜呑みにしたもので、同時代の史料などを検討して導き出された史実ではない。

 近年、ようやく同時代の文書などを通して家康の生涯を復元しようとする試みが本格的となり、長く語り継がれてきた「家康物語」の多くが再検討されるようになってきた。幼き日の家康が今川家の人質となり辛酸をなめたという「物語」も、実は事実とは異なることがほぼ実証されている。

 当時、家康の生家である松平家は、三河国の岡崎領を支配する「国衆」だった。国衆とは戦国大名より小規模で、それに従属する立場の武士をさす概念用語だ。同時代には「国人」「国人領主」といった呼び方をされていたようだが、近年は国衆という言葉で呼ばれるのが主流となってきた。

 この国衆、小規模とはいえ、自分の領地では「王」と呼べるような支配者・権力者であった。現代で言うところの行政、警察、司法の権限と、なにより税金を徴収する徴税権を持っていた。つまり自律的な領主ではあったが、他国との戦が日常的にあった戦乱の世では、自分が従属する戦国大名の指示に従い、彼らの求めに応じて出陣する必要があった。

 戦国大名とは、国衆よりも大規模な領地を支配し、従属する複数の国衆に軍事動員をかける存在だった。ただし、それぞれの国衆の領地から直接税金を徴収したり、国衆の地域支配に口を出したりすることはできなかった。

 国衆の多くは、より大きな地域権力である戦国大名に従属したが、何代にもわたりその大名家に仕えていたわけでもなく、自分の土地は自分で支配していたので、大名の家臣とは言えない。しかし、なかには完全に自律性を失い大名の家臣となる国衆もいたし、支配地域を広げて力をつけ、他の国衆たちを従えることで自ら戦国大名へと成長した国衆もいた。

 この国衆である松平家は、岡崎領の地域支配を自律的に行っていた。しかし、軍事的には弱小であったので、駿河・遠江(とおとうみ)を支配する今川家という戦国大名家に従属する立場だったのだ。

 現代の企業にたとえるならば、今川家は巨大なグループ会社、コングロマリットであり、松平家は独立した企業ではあるが今川家のグループ企業の一つということになるだろうか。つまり、家康の父・松平広忠は独立起業の社長で、困ったときには今川本社の援助を受けるような立場だった。今川本社は、傘下の企業である松平家に事実上の命令を下すことはあったが、松平家という企業の社内人事に口を挟んだり、社長の首を一存で挿げ替えたりするような権限はなかったのだ。

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