独白・アントニオ猪木さん 「私の師匠・力道山が北朝鮮からの帰国船で新潟に来た娘・金英淑と対面した日」

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「板門店に行きたい」

 そもそも、私が独自に北朝鮮外交へと乗り出したのは国会議員になって間もなくのことでした。ご存知の方も多いと思いますが、私と北朝鮮を結びつけたのは師匠であり、戦後最大のヒーローのひとりである力道山の存在です。そもそも、私が平成元年にスポーツ平和党を立ち上げ、参院議員選挙に出馬したことも師匠の影響抜きには語れません。力道山は引退後、参院選へと立候補するつもりで、極秘のうちに出馬計画が進められていました。そう、私が政界入りを目指した第一の動機は、師匠がなしえなかった夢をかなえたかったからなんです。

 議員になって5年が過ぎた94年、北朝鮮への核査察が国際問題化しました。恥ずかしながら、当時の私には北朝鮮問題についてほとんど知識がなかった。そこで、大量に資料を取り寄せて読み込んでいくうち、師匠の姿を思い浮かべるようになりました。というのも、その頃、私はある新聞記事を読んで師匠の娘が北朝鮮にいることを知ったんです。それまで私は、師匠が在日だと思い込んでいました。ただ、師匠が北朝鮮出身であることに触れた記事を読み進めると、「もしかして、あの時のことか……」と思い当たる節がいくつもあった。

 61年頃でしょうか、師匠に縁談の話が舞い込み、興行がてら新潟まで付き添ったことがありました。その時、なぜか1日だけ付き人に休みが与えられたんですね。私は師匠が趣味のゴルフをしているのだろうと気にも留めませんでした。しかし、実際は違っていた。その日は北朝鮮からの「帰国船」が新潟港に寄港しており、師匠はその船に乗って日本を訪れた、実の娘・金英淑さんと対面していたんですね。

 師匠の本名は「金信洛」で、6人兄弟の末っ子。長兄はシルム(朝鮮相撲)の横綱でした。生まれつき体が頑丈だった師匠も、10代半ばながら大人に交じってシルムの大会に出場して3位に輝きました。たまたまその大会を観戦していた二所ノ関部屋の後援会関係者にスカウトされて日本を訪れ、その後、養子となって「百田光浩」という日本名を名乗るようになります。

 師匠は63年12月に亡くなりますが、同じ年の1月に韓国を訪問しています。当時、日韓の国交は正常化していませんでしたが、韓国側から内々に招待された。訪韓自体が特別待遇だったし、現地では想像以上の大歓待を受けたそうです。

 その際、師匠は韓国側の関係者に「ひとつだけお願いがあります」と切り出した。「板門店に行きたい」、と。

 板門店はソウルから60キロほどの距離にあり、冬場は身も凍えるような寒さになります。それなのに師匠は現地に到着するや、上着を脱いで国境線に向かって走り出した。警備に当たる兵士たちはギョッとして、周囲は騒然とした雰囲気に包まれました。それにも構わず、師匠は上半身裸のまま、国境線の向こう側、北朝鮮に向かって叫んだそうです。おそらく、「おかあさーん!」という師匠の声が響いたんでしょう。

 私をプロレスの世界に導いてくれた師匠が、ついに錦を飾れなかった故郷、それこそが北朝鮮でした。師匠が生涯にわたって抱え続けた無念の思いを胸に、北朝鮮へ渡ろうと考えるようになりました。

 ただ、94年7月に中国経由で北朝鮮入りを目指した際は、北京の空港で北朝鮮の外務省の役人に止められ、「申し訳ありませんが、今回は事情があってお迎えできません」と告げられました。ちょうどその時に、金日成主席が亡くなったんですね。これはどうしようもなかった。日本に帰国後、改めて正式な招待状が届き、9月になって初めて北朝鮮を訪れることができたのです。そこで初めて対面したのが師匠の娘でした。

 あとで分かったことだけど、金日成主席は「力道山という同胞が日本で大活躍している」と耳にしていたようで、娘は大学まで通わせてもらい、国家体育委員長まで務めた夫と結婚しています。そして、2人の娘、つまり師匠の孫は重量挙げの選手で、コーチとして五輪で金メダルを獲得した選手を育て上げた。さらに、ひ孫に当たる16歳の少年は柔道選手として将来有望。東京五輪への出場も期待されています。

 話を戻すと、師匠の娘と対面した際、傍らにいたのが金正日総書記から信頼の厚かった金容淳(キムヨンスン)・元朝鮮労働党書記でした。私は彼に平壌での「平和の祭典」開催を提案し、力道山が日本中を熱狂させたプロレスを北朝鮮に紹介したいと伝えました。一般的に、あの国は提案を受けても半年や1年返事がないのが当たり前です。しかし、「平和の祭典」については、わずか1週間で委員会が設置され、OKの返事を得ることができました。結果、翌年4月に、モハメド・アリまで招待して大々的なイベントを開催。会場には2日間で38万人という大観衆が押し寄せました。政府高官からは、「一夜にして反日感情が消え失せました」と言われた。しかも、世界中から3万人もの観客とマスコミを迎え入れることができたんです。

 聞くところによれば、「平和の祭典」が開かれるまで北朝鮮にはものすごい反日感情が渦巻いていたそうです。仮に日本人が平壌を歩けば石をぶつけられてもおかしくないような状態だった。にもかかわらず、「一夜にして」日本のイメージがひっくり返った。いまでも平壌を訪れると、市民が私に手を振ってくれますよ。

 スポーツがもたらす感動によって人々の心をつかみ、世論を動かし、ひいては国家間の融和を図る。これこそが、私の考えるスポーツ外交なんです。

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