常に先んじた技術力で社会の課題に挑む――岡田直樹(フジクラ取締役社長CEO)【佐藤優の頂上対決】
デジタル化社会の動脈である光ファイバーに画期的な技術が誕生していたことは、あまり知られていない。従来の光ファイバーケーブルの欠点を克服し、敷設コストも軽減できるこの発明は、日本で誕生した。「ものづくり」の基本を大切に、世界と技術で勝負するフジクラの今後の重点研究分野と成長戦略。
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佐藤 この対談に先立って、本社1階ロビー奥のフジクラの歩みを展示した一画をご案内いただきました。
岡田 ご覧いただきまして、ありがとうございます。いかがでしたか。
佐藤 大変興味深かったです。あれはちょっとした博物館ですね。最後の区画ではデジカメやカーナビが分解され、フジクラの製品が使われている箇所が示してありましたが、私たちの周り半径3メートル以内のどこかには、必ず何かフジクラの製品が使われているのだと思いました。
岡田 弊社では“つなぐ”テクノロジーと呼んでいますが、光ファイバーや電線、そしてその周辺機器である、電気と機器つなぐコネクターやワイヤーハーネス(電線の束)などを製造しています。ですから、さまざまな電子機器や自動車の内部には、弊社の製品が使われているケースが多くあります。
佐藤 実はとても身近な企業なのですね。そしてもともとは電線から始まっている。
岡田 はい。ご年配の方には、昔の社名である「藤倉電線」と言った方が通りがいいかもしれません。創業者の藤倉善八は幕末から明治の人で、最初は水車による精米事業や根掛けという女性用ヘアバンドを作る事業を行っていました。それが1883(明治16)年、日本橋通りの電信局バルコニーにアーク燈という電燈がともったのを見て衝撃を受けます。そして、「電気万能の時代が来る。電気に関係ある事業に就けたら、必ず、将来発展することができる」と考え、翌々年から電線製造を始めるのです。
佐藤 起業家だったわけですね。
岡田 その電線も、初めは善八の奥さんが作っていた根掛けの編む技術を応用したものでした。銅を絹や綿で巻いた電線で、それがやがてゴムで覆うものとなり、現在の電線の原型ができます。そして電話が開通すると電話線も作るなどして、事業を拡大していきました。
佐藤 つまり電力と通信双方のインフラを作ってきた。
岡田 それから多角化でさまざまな電子部品を手がけるようになります。その一方、情報インフラが電気から光へ変わるのに合わせて、光ファイバーケーブルの製造も始めます。これは日本電信電話公社(現NTT)の研究開発チームに参加できたことが大きい。現在はその光ファイバーを中心とする情報通信事業に、コネクタや電子部品などのエレクトロニクス事業、そしてEV化が進む自動車部品事業の三つが柱となっています。
佐藤 光ファイバーの研究開発は、1970年代からされていますね。当時、私は小学校の高学年から中学生で、アマチュア無線に熱中していました。そして無線クラブの先輩から初めて「光ファイバー」という言葉を聞いたんです。彼によれば、光ファイバーを世界中に張り巡らせれば、瞬時に通信ができる。そうなると、もう無線なんかいらなくなる、ということでした。
岡田 私も小学校の中学年か高学年くらいに初めて知りました。母親が新聞か何かを読んで、将来、電話は電気じゃなく光になると書いてある、と教えてくれたのです。
佐藤 私が1960年生まれですから、だいたい同じ時期に聞いたのでしょうね。
岡田 当時はまだ、世界中に光ファイバー網が張り巡らされるとは誰も思いませんでした。でもその後、私が1986年にこの会社に入った時には、これから光ファイバーの時代が来ると確信していましたね。ちょうど、北海道から鹿児島まで、日本縦貫光ファイバーケーブルルートができた頃です。
佐藤 岡田社長の見立て通りになりましたね。
岡田 ちなみに入社したら、私は創業者と誕生日が同じだったんですよ(笑)。
佐藤 そうでしたか。その岡田社長が、画期的な光ケーブルを開発されるわけですから、そこに何か運命的なものを感じないわけにはいきませんね。まずその光ケーブルから教えてください。
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