山下泰裕・全柔連会長が熱望した“進学校限定”の柔道大会 意外と厳しい「文武両道」の基準

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 12月18日、東京都文京区の講道館で「文武両道杯全国高校柔道大会」が開かれた。大会プログラムには「第4回」と書かれているが、過去3回は新型コロナの影響で中止されたため、今回が事実上の第1回である。オリンピック代表などの有名選手が出るわけではなく、報道陣は筆者以外ほとんどいなかったが、柔道関係者の強い思いのもと開催された悲願の大会だった。【粟野仁雄/ジャーナリスト】

「文武両道」校の選定基準

「文武両道杯」の参加高校は、灘(兵庫県)、日比谷(東京都)、ラ・サール(鹿児島)、浦和(埼玉県)、筑紫丘(福岡県)、千葉(千葉県)など男子29校、女子は新潟(新潟県)、盛岡第一(岩手県)、浜松西(静岡県)など6校だ。全国のいわゆる「進学校」が中心である。

 ちなみに、名門・灘高校の設立時には、兵庫県出身で講道館柔道の創始者・嘉納治五郎が顧問を務めた。神戸市灘区にある同校の校門を入ると、嘉納治五郎の立派な像がある。

 大会は男子が各5人、女子が各3人の団体戦で、試合時間は3分と短い。一本調子で大外刈りばかりかける白帯選手などもいた。その一方で、高度な立ち技や研究を重ねた「三角締め」などの寝技を披露する選手もいた。

 一流選手と違い、駆け引きや組み手争いなども少ない。それゆえ、消極姿勢に与えられる「指導」も極めて少ない。力の劣る選手が堂々と強い相手と組み合ってしまい、あっという間に投げられる一本勝ちも多く、シンプルな試合で面白かった。

 ブロックごとのリーグ戦の結果、男子は浜松西、大阪星光(大阪府)、白陵(兵庫県)、長崎東(長崎県)がベスト4に残り、決勝で浜松西を3対1で破った長崎東が栄えある初代優勝校に輝いた。女子は盛岡第一が新発田(新潟県)を2対1で破って優勝。新潟高校は女子2人で臨むなど、部員不足で少し寂しい感があったが、選手たちは懸命に戦った。

 今大会の参加高校を選ぶ選定委員会の委員長を務め、開会式で挨拶した三本松進氏は1970年代後半、東京大学柔道部の主将として大活躍した。当時、「三本松は東大なんかに行ってなければオリンピックも目指せる男だ」とまで言われていた。

 三本松氏は今大会について「参加高校はスポーツ特待制度を設ける高校ではなく、一般入試を受けて入学する高校に限定しました。国立大学などにどのくらい合格しているかを基準にして選定し、難関とされる有名私立大学への入学が担保されている系列校も外しました」と話す。

 元全日本柔道連盟会長で講道館館長の上村春樹氏(モントリオール五輪無差別級金メダリスト)は「私は熊本県の八代東高校時代に、国体の高校男子団体戦で広島県チームと当たったことがある。私自身は三本松選手とは当たらなかったが、熊本県チームの他の高校の強豪が彼には一本負けした。本当に凄い選手だった」と懐かしがる。

 今回の文武両道杯の基本には、かつて東大柔道部が進学校の柔道部を対象に主催してきた「七徳杯高校招待柔道大会」があったといい、選定委員は東大を含む七帝大の柔道部OBらが中心である。

 最近の東大柔道部で思い出すのが、田上創さん(29)である。戸山高校(東京都)時代にインターハイの決勝で東海大相模高校(当時)の王子谷剛志選手(30)と激突し、僅差で敗れた。その後、王子谷選手が無差別級の全日本選手権で「柔道日本一」に輝いた男だと聞けば、田上さんの凄さがわかるはずだ。東大時代も講道館杯など超一流選手が集う大会に選ばれている。

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