「森英恵さん」、“世界のハナエモリ”愛用者は大統領夫人や王妃まで【2022年墓碑銘】

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 満ちては引く潮のように、新型コロナウイルスが流行の波を繰り返した2022年。今年も数多くの著名な役者、経営者、アーティストたちがこの世を去った。「週刊新潮」の長寿連載「墓碑銘」では、旅立った方々が歩んだ人生の歓喜の瞬間はもちろん、困難に見舞われた時期まで余すことなく描いてきた。その波乱に満ちた人生を改めて振り返ることで、故人をしのびたい。

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 森英恵さんは世界で評価された日本人服飾デザイナーの先駆者だ。1977年に東洋人として初めて、パリのオートクチュール(高級注文服)組合への加盟が認められた。シャネルなどと並ぶトップブランドになり、芸術家として尊敬を集める存在になったのだ。

 1926年、島根県の六日市村(現・吉賀町)生まれ。父親は開業医で医師になるよう厳命されるが、東京女子大学で国文学を学ぶ。

 卒業後、ほどなく結婚。主婦の手習い程度の気持ちで洋裁学校に通ったところ夢中になる。51年、東京・新宿に小さな洋裁店「ひよしや」を開く。デザインも腕も良いとの評判から映画の衣装を依頼され、「太陽の季節」「狂った果実」「秋刀魚の味」など数年間に500作以上を手がけた。

 当時から森さんを知る、ファッション評論家の堀江瑠璃子さんは振り返る。

「台本を読み、登場人物の心情を投影している衣装を考え出した。女優、俳優にも気を使う。それを時間と予算の制約があるなかで繰り返して鍛えられたのです」

ニューヨークで絶賛

 経営は夫の賢さんが担い、デザインに専念。女優が映画以外でも森さんの服を愛用したほど信頼されたが、2児を育てながら疲労困憊(こんぱい)する。周囲に勧められ61年に初めてパリへ。服を仕立ててもらう側を経験しようとシャネルを訪ねた。仕事ぶりに胸を打たれて世界に通用するプロを志す。

 同年に訪れたニューヨークでも衝撃を受ける。日本製の服は安物の代名詞のように扱われ、オペラ「蝶々夫人」では日本人が畳の上を下駄で歩く場面まで。日本には素晴らしい文化、伝統、美意識があり、丁寧なものづくりをしていることを示そうと闘志が湧いた。

 準備すること4年。65年、ニューヨークのファッションショーで絶賛される。

「日本の伝統的な織物の素材、柄を洋服に取り入れたのです。高級デパートから注文が入り、富裕層の心をつかんだ。儲けがそのまま実績につながるアメリカでまず挑戦したのも先見の明がありました」(堀江さん)

 ファッションジャーナリストの西山栄子さんは言う。

「西洋のまねではない日本のファッションを世界に発信したのです。デザインのセンスに加え、影響力がある人を見極める才能もありました。東京に来ている各国の大使夫人にもアピールしたのです。帰国すればそれぞれの国に伝わります」

 アメリカでの成功と人脈の力がパリ進出に生かされた。後の大統領夫人ナンシー・レーガン、モナコ王妃グレース・ケリー、女優ソフィア・ローレンら愛用者は枚挙にいとまがない。

 デヴィ・スカルノさんは思い出す。

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