「笑点」人気は活躍の一部、「六代目三遊亭円楽さん」のずば抜けたプロデュース力【2022年墓碑銘】
満ちては引く潮のように、新型コロナウイルスが流行の波を繰り返した2022年。今年も数多くの著名な役者、経営者、アーティストたちがこの世を去った。「週刊新潮」の長寿連載「墓碑銘」では、旅立った方々が歩んだ人生の歓喜の瞬間はもちろん、困難に見舞われた時期まで余すことなく描いてきた。その波乱に満ちた人生を改めて振り返ることで、故人をしのびたい。
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六代目三遊亭円楽さんは、「名人にはなれないが、達人にはなりたい」が口癖。お客に納得され、落語界で必要とされる存在でありたいと自分に厳しかった。
近年は満身創痍でも演じ続けた。2018年に肺がんを公表。翌年には脳腫瘍、さらにがんが再発し、今年1月に脳梗塞で入院するもリハビリを重ね、8月に国立演芸場で復帰を果たす。
写真は8月20日の姿。車椅子に座りマイクを使ったが「笑点」の仲間への毒舌は衰えず、お客を沸かせた。しかし、これが最後の高座に。9月30日に容体が急変、肺がんのため72歳で逝去した。
落語評論家の広瀬和生さんは振り返る。
「『笑点』を通じて抜群の知名度がありました。40年以上出演。桂歌丸さんへの毒舌で腹黒のキャラクターとからかわれても落語に親しむ機会になるなら望むところ。もちろん歌丸さんのことを尊敬していて仲良しでした。『笑点』での人気を落語界全体に還元した」
1950年生まれ。本名は會泰通(あいやすみち)。隅田川近くの東京下町で育つ。貧しかったことが役に立ち、相手が何を求めているのか機転が利くようになったという。
高校卒業後は東京都の職員として就職予定だったが、五十音順に並ぶ大学案内の最初に載っていた青山学院の法学部を記念に受験したところ見事合格。進学して学費は自分で稼いだ。
時は学生運動全盛期。周囲が政治や思想を語るなか、学費値上げ反対闘争に生活直結の一大事と参加。始めた限りは人並み以上になろうとのめり込み、闘士に。
師匠らが好むお茶の温度や濃さの具合まで
一方、落語研究会に属していた縁で、五代目三遊亭圓楽のかばん持ちのアルバイトを始める。重宝がられ、弟子にならないかと声をかけられて70年に入門。
前名の三遊亭楽太郎は、大師匠にあたる六代目三遊亭圓生が命名。前座時代は師匠らが好むお茶の温度や濃さの具合まで完璧に覚える気働きで驚かれた。「悪く言えばずる賢いんだ」と自分で言うのだから憎めない。
77年以来「笑点」に出演。81年には真打に昇進した。
「春風亭小朝とともに若手のトップランナー、本格派でした。古典落語のテーマを壊すことなく、現代的なセンスで語る工夫がありました。わかりやすくて面白い大衆性を大切にしていて、華もあった」(広瀬さん)
テレビタレントのようだと批判もされたが、売れたことで一門を助けた。78年、大師匠の六代目圓生が落語協会を脱退。師匠の五代目圓楽も同調し、東京の寄席定席に出られなくなった。
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