「京田陽太」のトレード以前にもあった!監督に嫌われて“放出”された男たち

スポーツ 野球

  • ブックマーク

“チームの不満分子”

 首脳陣批判などの末、89年のシーズン開幕直前にトレードで放出されたのが、大洋・若菜嘉晴である。

 近藤貞雄監督時代の85、86年に正捕手を務めた若菜は、87年に古葉竹識監督が就任すると、広島から移籍してきた堀場英孝や生え抜き中堅の市川和正と併用され、出番が減少。不満を抱いた若菜は88年シーズン終盤、「今の首脳陣にはついていけない」「(出身地・福岡の)ダイエーへトレードしてほしい」などの問題発言を繰り返した。さらに12月の契約更改でもダウン提示への不満を爆発させ、球団上層部からも睨まれてしまう。

 その後、若菜が謝罪文を提出したことで表面的には“手打ち”となったが、“チームの不満分子”というマイナス評価は変わらず、高卒ルーキー捕手・谷繁元信の開幕1軍のめどが立った翌89年3月31日、日本ハムへの電撃トレードが決まる。

 大洋時代に若菜を重用した近藤監督が「枠にはまりにくい人だが、ウチにはおとなしい選手が多いので、プラスになる」と受け皿になったのだ。かつての上司に新たな働き場所を与えられた若菜は「大洋にいたら今季限りだったかもしれない」と感謝し、正捕手・田村藤夫のサブとして91年までプレーを続けた。

“野村再生工場”で復活

 一方、若菜にとっては“恩人”にあたる近藤監督との相性が悪く、別々のチームで計2度追い出される形になったのが、金沢次男である。1982年に大洋に入団した金沢は、83、84年と2年連続10勝をマークし、遠藤一彦に次ぐエース格になった。

 だが、85年に近藤監督が就任すると、3勝7敗、防御率7.51と成績を落とし、シーズン後に木田勇らとの2対2のトレードで日本ハムに放出された。

 移籍1年目の86年、金沢は10勝を挙げ、再び先発の柱になったが、89年に近藤監督がやって来ると、中継ぎに配置転換され、プロ入り後ワーストの1勝でシーズンを終えた。さらに12月6日、「トレードがまとまらなかった」という理由で、まさかの自由契約になってしまう。 

 近藤監督は11月中に古巣・中日から“武闘派”のイメージが強い藤王康晴と小松崎善久を交換トレードで獲得しているが、いずれも「ウチはおとなしい選手が多いから、少々危ない感じの選手が欲しい」という理由から。闘志を内に秘めるタイプの金沢は、“近藤カラー”と一致しなかったのかもしれない。

「まだプレーできると思うから、野球を続けたい」と希望する31歳の金沢に対し、まず韓国の青竜が「15勝は勝てる」と手を挙げ、その後、投手力に不安のあるヤクルトも獲得に動き、晴れて移籍が決まった。

 翌90年、「今年ダメだったら最後にしよう」と選手生命をかけた金沢は、“野村再生工場”でサイドに転向したのがハマり、リリーフとして6勝5セーブを記録。92、93年には先発、リリーフでチームの連覇に貢献するなど、最終年のロッテも含めて37歳までプレーした。

 冒頭の話に戻るが、京田は、DeNA入団会見で「今年ベイスターズに(6勝18敗1分)コテンパンにやられてますので、僕が入ってもっとコテンパンにできたらなと思います」と古巣・中日に挑戦状を叩きつけた。新天地で意地を見せてほしいものだ。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 次へ

[2/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。