安倍元総理とも親交が深かった「葛西敬之さん」、国鉄分割民営化を成し遂げるまでの暗闘【2022年墓碑銘】

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 満ちては引く潮のように、新型コロナウイルスが流行の波を繰り返した2022年。今年も数多くの著名な役者、経営者、アーティストたちがこの世を去った。「週刊新潮」の長寿連載「墓碑銘」では、旅立った方々が歩んだ人生の歓喜の瞬間はもちろん、困難に見舞われた時期まで余すことなく描いてきた。その波乱に満ちた人生を改めて振り返ることで、故人をしのびたい。

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 国鉄は重要な事項の決定を政治に委ねていたが、対応は遅く不徹底で問題は先送りされる。土光敏夫氏が会長を務め、1981年に発足した第2次臨時行政調査会(臨調)で国鉄再建が取り上げられた時期には、毎年2兆円も借金が増え続けていた。葛西敬之(よしゆき)氏は、国鉄本社で臨調の窓口役を担当、やがて「国鉄改革3人組」のひとりと呼ばれる。

 当時、臨調の参与として審議に参加した政治評論家の屋山太郎氏は振り返る。

「葛西さんは、経営責任を明確化する自律的な体制が必要で、地域ごとの特性も考えれば分割民営化が必要だと語った。国鉄内部の動きも伝えてくれた。臨調に期待する世論を背にして、今しかないと覚悟があった」

 翌82年、臨調は国鉄の分割民営化を答申した。

「これはまだ入り口で、具体案作りになると反対派は猛烈に巻き返してきた。葛西さんは彼らを恐れずに手短かつ論理的に話し、正面から対決した」(屋山氏)

 面従腹背し分割民営化を骨抜きにする、と国鉄幹部が語った証拠を葛西氏は入手し、屋山氏を通じて中曽根康弘首相に知らせたことで事態は動く。中曽根首相は国鉄総裁ら幹部を更迭、85年に改革派が主導権を握る。葛西氏は労働組合と対峙し、人員削減を実行。87年に分割民営化は実現した。

 40年生まれ。父親は高校の国語の教師。幼い頃から俳句や和歌、「論語」を習う。

 都立西高校から東京大学法学部へ。63年、国鉄入社。翌年に国鉄は初めて赤字を計上している。予算や労務畑を中心に歩み、40代前半で分割民営化の最前線に立つ。

 JRの発足で、JR東海の取締役総合企画本部長に。最高時速270キロの新幹線車両の実用化を指示、92年に「のぞみ」が誕生した。

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