“拘禁症”残る袴田巖さんと3人の裁判官が異例の面会 姉のひで子さんは「わかったふりをして…」
簡潔なひで子さんの陳述
再審請求人と認められたひで子さんはこの日、法廷で「56年間も無実を訴えてまいりました。巌はいまだ妄想の世界ですが、真の自由を与えてください」と述べた。ずいぶん短い陳述だが、余計な装飾を嫌うひで子さんらしく、簡潔で単刀直入だった。巖さんの近況については「昔は10時間でも歩いていたのに、最近は歳を取ったのか歩かなくなって、見守り隊(猪野待子隊長)の人たちの運転で浜名湖の周辺のドライブなどを楽しんでいますよ」などと話した。
大善裁判長は、来年3月末までに再審可否の決定を出すと約束した。これまで弁護団への事前通告は「決定の2週間前までに」としていたが、今回、1カ月前までの通告を約束した。村崎弁護士は「もう、裁判長は決断したのだと思う」と期待感を見せた。
「前回の東京高裁も(鑑定人の)証人尋問までしてくれたが再審を取り消してしまった。油断はできない」などとこれまで慎重だった西嶋勝彦弁護団長も、今回は「裁判所に十分納得してもらったと思う。再審開始決定以外に考えられない」と自信を見せた。
ひで子さんが裁判所に向かう直前には、日本プロボクシング協会「袴田巖支援委員会」の新田渉世委員長や現役チャンピオンらが弁護士会館のロビーに集まり、ひで子さんの胸に「FREE HAKAMADA」などと書かれたバッジをつけて激励した。この日、東京はかなり冷え込んだが、ひで子さんは若い記者たちよりも薄着で外を歩いていた。
争点は「5点の衣類」
2020年12月、最高裁は「犯行時の着衣」と認定されていた「5点の衣類」について、血痕の色の変化の再検証を求めて高裁へ差し戻した。
麻袋入りの「5点の衣類(ズボン、ステテコ、半袖シャツ、スポーツシャツ、緑のブリーフ)」が殺された専務一家が経営し、巖さんが従業員として働いていたこがね味噌の味噌タンク(コンクリート製)から見つかったのは1967年8月31日。巖さんは前年の1966年8月18日に逮捕・拘留された。
こがね味噌では、1966年7月20日にこのタンクで味噌の仕込みをしている。衣類発見時は味噌が底に少し残るだけだったが、仕込みではタンクの上まで味噌を入れる。巖さんが衣類をタンクに放り込んで隠したならば、事件発生の1966年6月30日から7月20日までの間でなくてはならない。1年2カ月もの間、味噌に漬けられていたにもかかわらず、発見された時、衣類に付いていた血痕は赤色だったのだ。
巖さんが弁護士と面会した3日前の12月2日、弁護団と検察の双方が最終意見書を裁判所に提出していた。弁護団の意見書は、検察意見書の3倍近く長い149ページもの渾身の作だ。その中でも「5点の衣類」の血痕の色の変化について説明されている。
この日、間光洋弁護士は裁判官に対して、パワーポイントを使い最終意見書に説明を加えた。味噌漬け実験結果や専門家の鑑定から「ヘモグロビン(血液の成分)が分解、酸化して赤みを消失させ、血液のアミノ酸やたんぱく質も味噌の成分と化学反応を起こして変色が進行する」と説明。
検察は、血痕が付着した布を味噌に漬けてその色の変化を見る実験(検察実験)を行っている。これについて間弁護士は、「赤みが残ったとする検察実験は、真空状態にしたり、乾燥した血痕を使うなど赤みが残りやすい条件にしている」と批判した。
最高裁の要求は、色調変化がメイラード反応なのかそれ以外の要因なのか化学的な機序を明らかにせよ、ということだったが、法医鑑定によって1年2カ月を経た血痕は黒褐色になる、赤みは残らないと明らかになったというのが弁護側の主張だ。
一方、検察側は意見書で「実験では一部に赤みが残った。化学反応が起きにくくなり赤みが残りやすくなった可能性がある」とし、再審開始決定を否定。巖さんの再収監も求めているものの、この日、新たに説明を加えることはなかった。
浜松からリモ―ト会見したひで子さんは、「弁護士さんが一生懸命やってくださっていて安心しております。56年も戦ってきました。これで決着をつけてほしいと思う」と話していた。
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