元阪神・遠山奨志、「投手→外野手→投手」転向を重ねて…松井キラーで復活した“異色の野球人”

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「アイ・ラブ遠山や」

 だが、好事魔多し。同年オフに参加した米教育リーグで肘と肩を痛めたことにより、野球人生が暗転する。

 翌87年以降4年間結果を出せず、91年、高橋慶彦とのトレードでロッテに放出された。ロッテでも中継ぎとして中途半端な起用が続くうち、「これだけしんどくても、まったく評価されないなら」と自ら志願して、95年から外野手に転向した。中西太コーチの指導で高校通算35本塁打の打力に磨きをかけられ、96年にイースタンリーグ最多の99安打、打率.291、11本塁打を記録した。

 ただ、1軍では通算16打数3安打に終わり、30歳になった97年シーズン終了後に戦力外通告。現役続行を希望した遠山は、かつての先輩・中西清起の伝手で古巣・阪神のテストを受けるが、これが大きな転機となる。

 野手で受験したはずなのに、外野からの返球の“回転の良さ”に目をつけた首脳陣から投球するよう指示され、思いがけず投手として合格が決まったのだ。

 野村克也監督が就任した99年にサイドスローに変え、決め球のシュートをマスターすると、貴重な左の中継ぎとして、自己最多の63試合に登板。5月22日の巨人戦でNPB史上最長ブランク(当時)の10年ぶり勝利を挙げ、野村監督を「アイ・ラブ遠山や」と喜ばせるなど、投手再転向は吉と出た。

 中でも巨人の主砲・“ゴジラ”松井を13打数無安打に抑え、「顔も見たくない」とまで言わしめたキラーぶりは圧巻だった。

「プロ17年間で最高の思い出」

 6月13日の巨人戦、7回2死、打者・清水隆行の場面でリリーフした遠山は、右の代打・石井浩郎を送られると、石井を敬遠し、次打者・松井と勝負した。

 誰もがあっと驚いた大胆不敵な作戦に、打席の松井は「絶対に打ってやる」と怖くなるほどの闘志を見せたが、遠山も「絶対に抑えてやる」と心に期し、外に逃げるスライダーで簡単に追い込んだあと、最後は“伝家の宝刀”シュートで空振り三振に打ち取った。これが「プロ17年間で最高の思い出」になった。

 また、5月19日の広島戦では、7回無死一、三塁のピンチでリリーフし、1死を取ったあと、野村監督の指示で一塁を守り、2死後、伊藤敦規に代わって再登板。金本知憲を三ゴロに打ち取り、1試合2登板の好火消しを見せた。

 この変則継投は、翌00年にも右サイド・葛西稔との“スペシャル継投”としてすっかりおなじみになったが、本人は「右バッター相手でも抑えられる信頼がなかったということ」と複雑な思いだったという。

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