職人技と機械を組み合わせ究極の手術器具を作る――高山隆志(高山医療機械製作所代表取締役社長)【佐藤優の頂上対決】
アポなしドイツ工場見学
佐藤 高山さんは4代目になります。家業を継がなければならないという意識はあったのですか。
高山 まったくなかったですね。機械は好きですが、航空機エンジンを触りたかった。高校は都立航空工業専門学校の航空原動機工学科と東京工業大学附属科学技術高校に受かり、勉強が好きではなかったので3年制の東工大附属を選びました。でも、在学中に就職したかった全日空が高卒を採用しなくなるんです。
佐藤 東工大附属はレベルが高いですから、多くは大学に行くでしょう。
高山 勉強が嫌だったし、他にやりたいこともなかったので、とりあえず家業に入ってみたんです。そうしたら途中から面白くなってきた。
佐藤 何かきっかけがあったのですか。
高山 形成外科で使う「モスキート」という小さな鉗子(かんし)があります。かなり細い止血用の鉗子で、当時は1本5千円でした。
佐藤 「蚊」という名前なのですか。
高山 そうです。こんなので5千円か、と思ったんですよ。100本作れば50万円、200本なら100万円。これを2週間でやればかなり稼げるなと。
佐藤 それは職人の手作りですか。
高山 当時は全部、手作業です。だからこれを機械で作れないかな、と考えたんですね。
佐藤 ただ、そこには職人の技がある。
高山 それが意外と雑だったんですよ。代々伝わったやり方には、学問的におかしなところがいくつもあった。それで寸法が変わったり錆びたりして、これらの問題をどうにかする必要もあったんですね。それでまず高校時代に読んでいた専門書を全部読み返した。
佐藤 高校時代の基礎が役に立った。
高山 そうなりますね。またその頃、ドイツに世界的な医療機器の供給地があるのを知ったんです。ドイツ南部のトゥットリンゲンという街で、スイスのチューリッヒからインターシティ(特急列車)で1時間くらいです。ウチで働いていても大して進歩がなさそうなので、どこかで雇ってもらえないかと思った。それで自分が作ったサンプルを持ってドイツに行ったんです。
佐藤 何歳の時ですか。
高山 22歳です。まず医療機器の世界的なメーカー、エースクラップ社に行って「日本から来たんだけど、お宅の工場を見学させてくれませんか」と守衛さんに頼んだら、アジア担当の人が出てきた。それで彼にサンプルを見せて「これを作ったんだけど、研修させてもらえないか」って。まあ、無茶ですよね。
佐藤 まさに飛び込みですね。
高山 もちろんダメでしたが、その後も小さな工場をいくつか回って、工場の中を見せてもらいました。
佐藤 成果はあった。
高山 例えば、切削加工でフライス盤という機械を使うのですが、それが3台並んでいて、それぞれに特殊な治具(補助工具)と刃物が装着されていて、背の高い金髪の女性が髪を振り乱しながら操作しているんです。1人で3台動かす。そんな彼らのやり方をいろいろと知ることができました。
佐藤 働くことはできたのですか。
高山 全部断られました。でもこんな感じなら自分でもできるかな、と思って、それで帰国した。
佐藤 どのくらい滞在したのですか。
高山 3カ月です。その間に治具を作るにしても工作機械をイジるにしても図面をきちんと描けないとダメだと思って、帰国後にマッキントッシュを買ってCAD(コンピュータ支援設計)ができるようにし、図面を整理したり、汎用機を直してみたり、ざっと10年は試行錯誤しました。そしてNCと呼ばれる数値制御の高価な工作機械を入れて、量産体制を作ったんです。
佐藤 そのシステム全体を高山さんが作り上げた。
高山 ちょうど帰国してから新人を教えなくてはならなかったんですね。その時、彼ができるところは任せ、できないところは自分がやった。それで工程の分割が自分の中でできていったんですよ。それがよかった。また教えるとなると、2倍働くことになりますから。それではしんどいので、どうしても機械化が必要でした。
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