野村克也、土井正博、川藤幸三…「戦力外通告」から一転、花を咲かせた選手列伝

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“18歳の4番”の抜擢

 近鉄、西武の主砲として通算465本塁打を記録した土井正博も、17歳でプロ入りし、18歳の誕生日を迎える前に戦力外になるという“異色の経験”をしている。

 大鉄高を2年で中退し、1961年に近鉄入りした土井は同年、2軍で3割近い打率をマークしたが、チームが最下位に沈んだにもかかわらず、1軍からお呼びがかからないままシーズンを終えた。そして、オフに待っていたのは、まさかのリストラだった。

 当時の千葉茂監督は、コツコツ当てるアベレージタイプの打者を好み、土井のようにフルスイングで一発を狙う打者を評価していなかった。「秋季練習に来なくていい」と言われ、「ラッキー」と“臨時休暇”を喜んでいた土井も、日が経つにつれて、「おかしいな」と自らの立場が危うくなっていることに気づきはじめた。

 ところが、10月末に3年連続最下位に終わった千葉監督が解任されたことが、運命を大きく変える。

 後任の別当薫監督は、整理リストに入っていた土井の長距離打者としての素質を見抜くと、秋季キャンプに呼び出し、「来年は4番で使う」と明言した。万年最下位でぬるま湯に浸かり、ベテランの多いチームを一新するために、あえて“18歳の4番”の抜擢を決めたのだ。

 62年のシーズン開幕後、思うような結果を出せず、「(スタメンを)外してほしい」と土井が訴えると、別当監督は「使うてるオレのほうが苦しいんやぞ。もう1回死に物狂いでやってみい」と突き放した。周囲の陰口が聞こえているうちは、まだ本気で野球漬けになっていないという訓戒だった。

 そんな苦闘の日々を経て、別当監督に辛抱して使われつづけた土井は、64年に打率.296、28本塁打を記録し、真の4番に成長した。

「まだ野球をし足らん」

 戦力外から残留をかち取ったのは、若手ばかりとは限らない。

 阪神・川藤幸三は、34歳になった1983年、球団から2軍コーチ就任を要請され、引退勧告を受けると、「もう1年腹を括ってやりたかった。カネは球団のほうで好きなようにやってくれてええ。100万でも200万でも、わしゃ、やりますよ」と無条件の残留を熱望。720万円ダウンの年俸480万円(推定)という60パーセントの大減額をのんで、現役続行を実現させた。

 翌84年、主に代打として自己最多の20打点と勝利打点5をマークし、“浪花の春団治”と呼ばれた川藤は、85年にはプロ18年目で初のリーグ優勝と日本一も経験した。

 同年オフ、球団が2度目の引退勧告を行うと、川藤は「まだ野球をし足らん。何かし残した。2軍でもええ。もう1年やらせて」と訴え、2度目の残留。翌86年は吉田義男監督の推薦で、オールスター初出場をはたし、現役生活19年の“有終の美”を飾っている。

 ちなみに阪神は、川藤以外にも1度は戦力外通告を受けた選手が残留した例があったようで、87年限りで引退した長崎啓二(本名・慶一)は、当初整理されるはずだった選手が固辞して、首がつながった結果、引退を早めることになったという。

 戦力外から残留をかち取る選手がいる一方で、残留するはずだった選手が割を食う……これも考えさせられる話だ。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

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