野村克也、土井正博、川藤幸三…「戦力外通告」から一転、花を咲かせた選手列伝

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「お前、いっちょ打ってみい」

 NPBでは、今オフも129選手が戦力外通告を受けた。これらの選手は、移籍先を探すか、現役を引退するかのいずれかになるが、過去には、一度はクビを宣告されながら、一転残留をかち取り、花を咲かせた幸運な選手がいた。【久保田龍雄/ライター】

 南海時代の野村克也もその一人である。

 1954年にテスト入団した野村は、“カベ要員”としての採用だったため、来る日も来る日もブルペンで投手の球を受けるだけで、2軍の試合に出してもらえない。

 せめてもの救いは、ブルペン捕手として1軍に帯同した日に、大差のついた試合などで、監督から「お前、いっちょ打ってみい」と代打に出してもらえたこと。現在とは違って大らかな時代だったので、当時はユニホームを着てベンチ入りしていれば、試合に出場できた。

 7月18日の毎日戦では、9回に同点に追いついた際、2人目の捕手に代打が送られたことから、その裏の守備から野村が出場し、同期入団ですでに11勝を挙げていた宅和本司とバッテリーを組んだ。だが、延長10回2死満塁から押し出し四球でサヨナラ負け。打撃成績も9試合で11打数無安打5三振に終わった。

「南海電車に飛び込みます」

 結果を出せないまでも、貴重な経験を積んだ野村だったが、オフに「お前はもうプロでは無理だ」の烙印を押され、戦力外通告を受けてしまう。

 京都・峰山町(現・京丹後市)初のプロ野球選手として盛大に送り出されたのに、たった1年でクビでは納得できない野村は「これでは故郷に帰れない。クビになったら、南海電車に飛び込みます」と泣きながら哀願した。

 すると、マネージャーは「お前みたいな奴は初めてや」と呆れながらも、契約をもう1年延ばしてくれた。2年目で結果を出せなければ、もうあとはない。「思い切ってやって、思い切ってクビを切られてやる」と誓った野村は翌55年、ウエスタンの全24試合に出場し、リーグ2位の打率.321をマーク。

 そして、3年目の56年、捕手出身の松本勇2軍監督が「真面目で一生懸命だし、打撃も良くなってきた」と推薦し、1軍のハワイキャンプのメンバーに選ばれると、そのチャンスを見事に生かし、正捕手の座を掴んだ。

 もし、1年目のオフに野村が退団していたら、後のプロ野球の歴史も大きく変わっていたことだろう。

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