村田兆治、池永正明、柴田保光…2022年に他界した野球人の記憶に残る“名場面”
“野村ID野球”に影響を与えた
西鉄エース時代の1970年に“黒い霧事件”に巻き込まれ、敗退行為を行っていないにもかかわらず、“疑わしきは罰する”で永久追放処分を受けた池永正明さん(9月25日逝去、享年76歳)は、在籍5年余りで通算103勝を記録。もし現役生活を全うしていれば、300勝到達も夢ではなかったといわれる。
「池永正明と、その時代」(岡邦之著、三一書房)によると、「僕はさあこれからだというときに永久追放された。思い出に残る試合なんかない。そんなもんは燃え尽きた男が口にすることやないですか」と語っていた池永さんだが、“野村ID野球”に大きな影響を与えたとされるのが、1967年のオールスター第1戦で見せた巧みな投球術である。
プロ3年目、20歳で第1戦の先発を任された池永さんは、2対0の1回1死三塁のピンチで、3番・長嶋茂雄、4番・王貞治のONと相対した。長嶋には徹底して低めを突いたが、ストレートの四球で一、三塁。次の王に一発が出れば、一気に逆転されてしまう。
だが、池永さんは「最悪の場合は歩かせてもいい。王さんの当たりは強烈で球足も速く、併殺に打ち取れるケースも多い」と考え、捕手・野村克也に「追い込んだら、落ちる球を行きますよ」と告げた。
「お前の好きなようにいけ」と答えた野村は、カウント1-2から絶妙のタイミングでシンカーのサインを出した。「左打者に対して苦しいときにこの球を使った。成功率も高い」と自信を持つ池永さんは、見事王を二ゴロ併殺に切って取り、無失点で切り抜ける。3回をゼロ封した池永さんは、球宴初出場の65年から9イニング連続無失点の快挙を達成し、優秀投手賞を手にした。
後年、監督に就任した野村は、この日の池永さんの投球術を参考に、ID野球を形成したといわれる。
その後の池永さんは、2001年に「もう1度マウンドに立たせてやりたい」というマスターズリーグ・福岡ドンタクズの稲尾和久監督の要請で投手として参加。NPBでも、長年にわたる署名運動の末、05年に処分が解除され、35年ぶりに“復権”をはたした。
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