「藤子不二雄Aさん」、最初の弟子が明かす盟友「Fさん」との好対照【2022年墓碑銘】

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自分が読みたい漫画を描く

 漫画にも造詣の深い評論家の呉智英さんは言う。

「同じく子供の心でも、藤本さんが『ドラえもん』で夢や希望を描けば、安孫子さんは『魔太郎がくる!!』で恨みや復讐心を表現する。共同名義でも作風が違い、ファンは気付いていました。安孫子流のブラックユーモアに嫌みな部分はなかった」

「まいっちんぐマチコ先生」で知られる漫画家のえびはら武司さんは、73年から75年にかけてふたりのもとでアシスタントとして働き、最初の弟子と呼ばれる。

「藤本先生は漫画に専念。安孫子先生は弟子に気を使う。とても社交的で、私たちを食事や映画に誘ってくれました。話好きで、生きるうえで人づきあいがいかに大切かを身をもって教えて下さった。私が辞める時には、どんな仕事も必要とされたのだから断ってはだめだよと諭してくれました」

 ヒーローズの社長で小学館の前最高顧問、白井勝也さんも振り返る。

「小学館での連載時と大御所になられた時とで何も変わりません。人をよく見て心の奥底までとらえようとした。それが創作の源でした。人と触れ合うのが好きで誰とでも親しくなる。芦田伸介、井上陽水、宮沢りえ、挙げればきりがないほど交流は多彩。話し込んでいたのに、友人を見つけて行ってしまい戻ってこないこともありますが、憎めない」

 自分が読みたい漫画を描くのが信条。「プロゴルファー猿」は子供向け漫画で初めてゴルフを題材にした。

 コンビは高校時代から収入を「公金」と呼び共同管理。どちらの漫画が儲けていても気にせず、折半した。

 87年にコンビを解消。藤本さんが切り出したが、お互い独り立ちする新鮮な気持ちだった。安孫子さんは、96年に62歳で他界した盟友、藤本さんを離れて眺めてすごさがよくわかったと悼んだ。

80代半ばを超えても

 妻の和代さんも活躍を支えた。偏食の夫のために弁当を作り続け、脳内出血で半身がまひしても右手だけで作った。安孫子さんは老人が元気の出る漫画を描きたいと、80代半ばを超えても意欲を保った。

 4月7日朝、川崎市内の自宅の庭で倒れているのが見つかった。享年88。

 生家の光禅寺の住職で甥の菊池耕一さんは言う。

「コロナウイルスが流行する前は寺に墓参りに来ていました。賑やかで明るいのですが、人一倍気を使う繊細な人でもありました」

「明日にのばせることを今日するな」がモットーと言いつつ、新境地に挑み続けた愉快で痛快な好漢だった。

デイリー新潮編集部

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