野口みずきが明かす“一生の宝物”とは 小柄で内向的な少女がメダリストになった軌跡(小林信也)
ハーフからフルへ
世界に羽ばたく大きな覚醒は、最初の海外遠征にあった。1999年10月、世界ハーフマラソン選手権の代表に選ばれ、イタリア・パレルモに渡った。
「レース前は『外国選手は強い』という意識がありました。だからスタートしてすぐは、ケニアやイタリアの選手に『ついて行こう』と思って走りました。ところが、誰も前に出て来ない。ペースも遅いから、『自分が出てしまえ』と思って15キロくらいまで先頭で引っ張った。最後はケニアのテグラ・ロルーペと競り合って銀メダルでしたが、外国選手も同じ地球人で、宇宙人じゃないんだなって。どんどん世界の大会に出て、トップを狙おうと思いました」
野口は初めての国際舞台で、3連覇を狙うロルーペと優勝争いを演じたのだ。
「7キロの周回コースでした。1周回るたびにアップテンポの音楽に合わせてMCが私の名前を呼んでくれる。それがうれしくて」
内向的な少女は、海外のビートの効いたBGMと華やかな声で自分の名を叫ぶアナウンスに触発されて、目立ちたい、勝ちたいと願うランナーになった。
もうひとつ、野口を激しく覚醒させた光景がある。
「私はハーフマラソンをたくさん走って『ハーフの女王』と呼ばれていましたが、そろそろフルマラソンに挑戦したいと思うきっかけが、シドニー五輪の高橋尚子さんの優勝シーンでした。何万人という競技場の人たちが全員、尚子さんに視線を注いで、拍手が鳴りやまない。私もあの大歓声を一人占めしたい!」
日本人には珍しいバネのあるストライド走法でフルマラソンを走りきれるのか、ケガはしないか。それを案じる声もあった。が、懸念を上回る対策(筋トレや練習量)、そして野口自身の走りが杞憂を吹き飛ばした。
「私には憧れの選手がいました。アトランタ五輪代表だった真木和(いずみ)さんです。それで高卒後、真木さんと同じチームを選んだのです。チームには真木先輩が初めてマラソンを走った時のトレーニング・メニューが残っていました。同じ中国の昆明でキャンプをし、同じメニューで練習しました。そしたら、真木先輩より速いタイムで走れた。『マラソン、向いているのかな』と思いました」
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