二枚目スター「宝田明さん」の凄絶な戦争体験、「ゴジラ」を“同級生”と呼んだ理由【2022年墓碑銘】

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 満ちては引く潮のように、新型コロナウイルスが流行の波を繰り返した2022年。今年も数多くの著名な役者、経営者、アーティストたちがこの世を去った。「週刊新潮」の長寿連載「墓碑銘」では、旅立った方々が歩んだ人生の歓喜の瞬間はもちろん、困難に見舞われた時期まで余すことなく描いてきた。その波乱に満ちた人生を改めて振り返ることで、故人をしのびたい。

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 ロシアによるウクライナ侵攻が続いている。その非道ぶりはソ連時代と変わらない。かつて日本人も経験した光景である。昭和を代表する二枚目スター、宝田明さんにもソ連軍の暴挙が深く刻み込まれていた。

 1934年、日本統治下の朝鮮、清津生まれ。父親が南満洲鉄道に勤務したことで満洲へ。ハルビンで敗戦を迎え、生活は一変する。

 宝田さんが戦争への思いを口にするようになったのは、還暦を過ぎた頃からだ。昨年、本誌(「週刊新潮」)の取材に凄絶な体験を鮮明に語っている。

 日本の婦人がソ連兵に路地裏に引きずられて行く姿を目撃すると、自らの危険も顧みずソ連の憲兵のもとに走り、懇願して現場まで連れて行った。しかし、婦人は辱めを受けた後だった。
 
 ソ連兵から銃撃を浴びたことも。〈下腹部が血だらけで真っ赤に染まっていた。逃げるのに必死で気付かなかったけれど、弾が当たっていたんですね。傷口はまるで熟したザクロのようでした〉。麻酔などないなか、元軍医が裁ちばさみで腹を裂き、銃弾を摘出した。傷痕は生涯うずいた。

 敗戦から1年以上が経った頃、引き揚げのめどが立つ。〈地元の中国人から衣服と物々交換で野菜を手に入れたりね。ついに交換するものが無くなって、乳幼児と引き換えに泣きながら食料を受け取る婦人もいました〉。父方の故郷、新潟県の村上にようやく落ち着く。満洲で生き別れになった兄は独力で引き揚げたが、〈僕が抱きつくと、兄はこう言いました。「なんで俺を置いて帰ったんだ!」。とても感動の再会などとは呼べません〉。その兄は心を閉ざしてしまう。宝田さんの家族には戦死者もおり、生き延びた者も引き裂かれた。

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