石原裕次郎の最後の言葉、一晩3400万円のギャラだった歌手は? 「ニューラテンクォーター」元社長が明かす知られざる舞台裏

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幻となった美空ひばりショー

生島 心残りはありましたか。

山本 実は開店30周年記念に、美空ひばりさんに出演を依頼していたんです。日本人歌手で唯一残った最後の大物、美空ひばりさんのショーをぜひ実現させたいと思い、ひばりさんと仲のよかった作曲家の神津善行さんと打ち合わせも済ませていたのです。でもひばりさんが病気になって、「美空ひばりショー」も幻になってしまった。彼女が亡くなったのは、閉店して約1カ月後のことでした。

生島 その後、ホテルニュージャパンの跡地は千代田生命保険が再開発しますが、同社が経営破綻し、外資系大手生命保険会社プルデンシャルと森ビルが「プルデンシャルタワー」を建てました。私は昭和の終わりまでTBSに勤めていたのですが、同じ赤坂にあるニューラテンクォーターには一度も行ったことがありません。駆け出しのアナウンサーにとっては、高級で分不相応だったんです。でも一度くらい店に行ってショーを楽しみたかったですね。

山本 そうでしたか。ニューラテンクォーターの30年は本当にいい時代だったと思います。そこでお届けしたショーはどれも素敵なものばかり。いま振り返ってみると、多くの人に支えられ、それをやり続けることができた私は、本当に恵まれていたと思います。

(一部敬称略)

山本信太郎(やまもとしんたろう)
1935年福岡県生まれ。福岡大学卒。1959年、東京・赤坂でナイトクラブ「ニューラテンクォーター」を開店し社長に就任。海外のビッグスターの公演を次々に成功させ、ショービジネスを定着させる。1989年の閉店後もさまざまな分野で活躍。

生島ヒロシ(いくしまひろし)
1950年宮城県生まれ。1975年カリフォルニア州立大学ロングビーチ校ジャーナリズム科卒。1976年TBS入社。ラジオを振り出しにアナウンサーとして活躍し1989年に独立。以後もテレビ、ラジオを中心に多彩な活動を行っている。

週刊新潮 2022年12月8日号掲載

特別対談「生島ヒロシがオーナー社長に聞いた昭和秘史 後編 ショーほど素敵な商売はない 世界中から大スター! 『ニューラテンクォーター』煌めく夜」より

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