石原裕次郎の最後の言葉、一晩3400万円のギャラだった歌手は? 「ニューラテンクォーター」元社長が明かす知られざる舞台裏
立退料は30億円
生島 彼はニューラテンクォーターの売却を迫っていたのですか。
山本 はい。横井はホテルを取り壊し、新たに建て直そうとしていたんです。でも店が立ち退かなければ、建物を取り壊せない。だから店が邪魔だったんです。
生島 その後、山本さんは店を守るためにニューラテンクォーターを売却されますね。
山本 お付き合いのあった実業家の方に売却し、その後、廣済堂の櫻井義晃会長の所有になりました。そして閉店までは櫻井会長のもとで営業を続けました。最終的に横井は、櫻井会長に立退料として30億円ほど支払ったそうです。私はそのうちの10億円を受け取り、次の店である赤坂のニューペントハウスの開店資金や、従業員の退職金にあてました。
生島 横井との闘いをうまく切り抜けた。
山本 最初に横井が私に提示したのは、5億円でした。5億円で私が喜ぶと思ったんでしょうね。「これで九州に帰ってのんびり暮らせばいい」と言っていましたね。
昭和の終わりとともに閉店
生島 ニューラテンクォーターの閉店は、平成元年5月28日でした。
山本 ニュージャパンの火災後、店の売り上げは前の水準まで回復することはありませんでした。洗練された雰囲気を売り物にしていたクラブだったので、やはり廃墟となったホテルの地下にあることが災いしました。また時代も変わって、接待のスタイルも変化し始めました。バブル時代に入り、ナイトクラブでアーティストのディナーショーを見ながらの飲食よりも、高級料亭や人気レストランでの美食がもてはやされる時代になった。アーティストたちも、巨大な会場でコンサートをするスーパースターと、小規模のライブハウスで演奏するロック系のミュージシャンに二極化していったんです。
生島 そうした時代の流れの中で、閉店を決められたのですね。
山本 開店25周年の昭和59年に、世界的なエンターテイナーであるサミー・デイビスJr.を迎えてビッグショーを盛大に行ったのですが、いまひとつ盛り上がりに欠けました。その後、外国人モデルによる水着ショー「カリフォルニア・モデルズ」を企画し、営業的には大成功を収めたのですが、業績が好転するまでには至りませんでした。
生島 閉店の年の1月には天皇陛下が崩御されて、年号が「平成」に改まります。
山本 その意味でも、ニューラテンクォーターは、まさに昭和という時代とともに歩み、昭和の終わりとともに30年の歴史に幕を下ろしたことになります。
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