石原裕次郎の最後の言葉、一晩3400万円のギャラだった歌手は? 「ニューラテンクォーター」元社長が明かす知られざる舞台裏
大惨事となったホテルで
生島 その数年前、店が地下に入居しているホテルニュージャパンは火事に見舞われています。昭和57年2月8日未明のことです。
山本 その前日は日曜日で、いつもより早めに店が終わり、午前0時過ぎには帰宅していました。午前3時半を少しまわった頃だったか、従業員の一人から「大変です! ニュージャパンが火事です」と電話がありました。急いでタクシーを拾って駆けつけると、あたりは大変な数の野次馬でごった返していた。火元と見られる9階と10階あたりの窓からは真っ赤な炎が噴き出し、黒い煙が立ち昇っていました。その近くの階で助けを求める宿泊客も見えました。でも私たちはただ呆然と見ているしかなかった。
生島 翌日は、JALの飛行機が、機長の「逆噴射」で羽田空港沖に墜落する惨事が起きました。何か呪われたような2日間でした。
山本 火事の死者は33人で、墜落事故の死者を上回りました。戦後のホテル火災としては最大級の惨事です。原因は宿泊客のタバコの火の不始末でした。
生島 地下にあった店の被害はどのくらいでしたか。
山本 幸いなことに、地下は延焼を免れただけでなく、消火の水による浸水もさほどありませんでした。店は1日休んだだけで、再開しました。ただそれは別の事件の始まりでもありました。それから閉店までの8年間、ホテルニュージャパンの社長、横井英樹という“虚業家”と泥沼のような闘いが始まったからです。
生島 「乗っ取り屋」の異名をとった人物ですね。蝶ネクタイ姿が印象的でした。火災の後に、業務上過失致死傷容疑で逮捕され、結果的に最高裁で禁錮3年の実刑判決が確定した。
「私も火事の被害者」
山本 ホテルニュージャパンの火災は、彼の放漫経営によるずさんな防火管理が一因でしたからね。でも彼は「私も火事の被害者なんですよ。わかってくださいよ」なんて、同情を引くようなことを言っていた。人を丸め込むのがうまいんです。
生島 山本さんとは、どんなやりとりがあったのですか。
山本 横井は昭和54年に藤山愛一郎氏が会長を務めた大日本製糖の保有するホテルニュージャパン株を取得して経営権を握りました。宿敵だった政商・小佐野賢治に対抗して、一流ホテルのオーナーになりたいと思っていたのです。それで横井はニューラテンクォーターの地主になった。すると1カ月40万円だった地代が1千万円という法外な額に引き上げられたのです。もちろん私は払う意思はなく、裁判に訴え、地代は供託の手続きを取りました。他にも横井はホテルの駐車場を使わせなかったり、店の入り口に向かう通路の真ん中にコーヒーショップを建てたり、散々嫌がらせをされました。
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