「力道山が刺された直後に私に放った言葉は…」 現場となった「ニューラテンクォーター」元社長が真相を語る

エンタメ

  • ブックマーク

力道山の強さを示す豪快伝説

生島 へぇ、そんな裏話があったのですか。でも力道山は本当に強かったんでしょう。

山本 それについては、印象的なエピソードがあります。まだ福岡にいた頃、力道山と博多のバーでお酒を飲んだことがあるんです。その時、博多で一番けんかが強いといわれた後藤という男が、「力道山がどのくらい強いか勝負に来た」と店に現れたんですよ。

生島 腕試しだ。

山本 周りは止めたのですが、力道山は「わかった、勝負しよう」と受けて立った。「てめえ、この野郎」と後藤がぶつかっていったんですが、力道山はそれをかわして、あっという間に後藤を床にひっくり返した。そして後藤の胸に足を乗せ「オレがいま足に力を入れたら、肺が潰れておまえは死ぬぞ」と言ったんですね。後藤は尻尾を巻いて退散しましたが、興奮収まらない力道山は、その後も「ウォー」とほえて、店の柱を掴んで揺すった。そうしたら店がグラグラ揺れたんですよ。従業員たちが「きゃー、お店が壊れる」って(笑)。

生島 力道山の豪快伝説ですね。その死は驚きをもって伝えられました。そしてその後、ニューラテンクォーターは「力道山が刺された店」という形容詞がついた。

山本 力道山の事件は、戦後最大のヒーローの死であると同時に、私にとっても大きな試練であり、ターニングポイントでした。でも、その試練を乗り越えることで私の腹は据わり、仕事を続けていく自信が芽生えた。皮肉にもリキさんの死が私を強くしたのです。

(一部敬称略)

山本信太郎(やまもとしんたろう)
1935年福岡県生まれ。福岡大学卒。1959年、東京・赤坂でナイトクラブ「ニューラテンクォーター」を開店し社長に就任。海外のビッグスターの公演を次々に成功させ、ショービジネスを定着させる。1989年の閉店後もさまざまな分野で活躍。

生島ヒロシ(いくしまひろし)
1950年宮城県生まれ。1975年カリフォルニア州立大学ロングビーチ校ジャーナリズム科卒。1976年TBS入社。ラジオを振り出しにアナウンサーとして活躍し1989年に独立。以後もテレビ、ラジオを中心に多彩な活動を行っている。

週刊新潮 2022年12月1日号掲載

特別対談「生島ヒロシがオーナー社長に聞いた昭和秘史 力道山が刺された伝説のナイトクラブ『ニューラテンクォーター』の光と影」より

前へ 4 5 6 7 8 次へ

[8/8ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。