「力道山が刺された直後に私に放った言葉は…」 現場となった「ニューラテンクォーター」元社長が真相を語る

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自らワインをついで接待していた本田宗一郎

山本 僕は運が強かったと思います。ちょうど高度成長期で、日本の景気が一番良くなる時期にぶつかった。当時、ニューラテンクォーターが雑誌や新聞で紹介される時、必ず「大人の社交場」という言葉が使われました。それにふさわしく、知性も教養もある社会的地位の高い方たちが、数多く店に足を運んでくれました。

生島 どんな方々が印象に残っていますか。

山本 昭和天皇の弟君にあたる高松宮殿下をはじめとした皇室の方々、政界で活躍された代議士の方々など、たくさんいます。河野一郎、大野伴睦、中曽根康弘、福田赳夫、安倍晋太郎、松野頼三などの先生方は、赤坂の料亭での会合の流れでよくお見えになりました。また一流企業の経営者の方々もたくさんいらした。なかでも印象に残っているのは、本田技研工業の創業者、本田宗一郎さんです。彼は接待を部下に任せるのではなく、自らテーブルを回ってワインをついでいた。その謙虚な姿を見てファンになりました。

生島 一方、いわゆる任侠の世界に生きる人たちも数多く来店されていますね。

山本 “夜の昭和史”と言われればその通りで、確かに裏社会に生きる人たちを巻き込んで成立していた場所でした。でも、店が失礼のない対応をすれば、むしろ彼らは酒癖の悪い素人さんより、よっぽどよいお客様でしたよ。

伝説のヤクザを巡るトラブル

生島 彼らへの対応で、苦労されたことはありませんでしたか。

山本 覚えているのは、伝説のヤクザで、武闘王と呼ばれた「ボンノ」こと、3代目山口組若頭補佐の菅谷政雄・菅谷組組長のことです。ある夜、上京した菅谷組長が俳優の勝新太郎さんと一緒にお見えになったんです。菅谷組長は勝さんを高く買っていて、よく面倒を見ていた。その同じ時刻に来店したのが、小林楠扶会長の弟分である直井組組長、直井二郎さんでした。その直井さんが付き人を通じて勝さんに、自分のテーブルまであいさつに来るよう伝えたのです。それを聞いた菅谷組長が色をなした。

生島 それは大変だ。

山本 勝さんは何度か催促されたあと、直井さんにあいさつに行きました。そうしたら菅谷氏が私の応接室に来て、そこへ直井さんを呼び出したのです。直井さんが部屋へ入ってくると、菅谷組長は「そこに座らんかい。住吉のどこのもんだ。わしゃあ菅谷のボンノじゃ」とたんかを切り、直井さんの顔色が変わりました。しばらく部屋の中に息が詰まるような空気が流れました。そして直井さんが「わかりました。場所を改めてごあいさつさせていただきます」と言い、その場は何とか無事に収まりました。剣豪同士がお互いの力量を認め合ったような雰囲気でしたね。

生島 すごい話ですね。

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