「力道山が刺された直後に私に放った言葉は…」 現場となった「ニューラテンクォーター」元社長が真相を語る
「政財界のフィクサー」の威厳
生島 吉田彦太郎という人は、どんな方だったのですか。
山本 吉田は、福岡商業高校から明治大学に進み、若い頃から右翼活動に身を投じました。戦時中は、海軍航空本部嘱託の児玉機関副機関長として上海を中心に中国大陸で軍の資材調達活動に奔走し、戦後は政治結社「猶存社」の中心人物でした。一言で言えば、児玉誉士夫の“右腕”です。
生島 すごい人が身内にいらしたのですね。
山本 その縁でニューラテンクォーターは、児玉機関で副部長だった野上宏さんと右翼団体の日本青年社会長で住吉連合(現・住吉会)小林会の小林楠扶(くすお)会長に顧問をお願いしていました。おかげで店でのトラブルは、あの力道山の事件を除けば、ほとんどありませんでした。
生島 非常に大きな後ろ盾ですが、児玉誉士夫といえば、「日本の黒幕」「政財界のフィクサー」として知られた存在です。山本さんはお会いになっているのですか。
山本 はい、何度かお目にかかりました。初めて会ったのは、父と一緒にニューラテンクォーター開店のあいさつに伺った時です。書斎に通されると、先生は何か書き物をされていました。「山本信太郎です。よろしくお願いします」と言うと、先生は私の顔をまじまじと見て、「お江戸で何かあったら、いつでも来なさいよ」とおっしゃった。優しい口調でしたが、その威厳というか、威圧感がすごかったですね。
総工費は当時で1億4千万円
生島 ニューラテンクォーターの開店は、昭和34年12月11日でした。お店のつくりはかなり豪華だったようですね。
山本 総工費は当時で1億4千万円です。玄関から「くの字」に曲がった階段を下りていくと右手にクロークがあり、さらに5、6段降りると、当時300万円はした大きなシャンデリアがある円形ロビーに出ます。そのロビーから先に進むと、右手にバーカウンター、そして中央に、低く掘り下げた広々としたメインホールがあります。ここに約250のテーブル席が並び、左手奥にステージ、それと正対する壁際にはVIP待遇のボックス席がありました。テーブルや椅子はアールデコ風ですべて山形の天童木工に特注したものでした。
生島 贅を尽くされたのですね。
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