「力道山が刺された直後に私に放った言葉は…」 現場となった「ニューラテンクォーター」元社長が真相を語る

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力道山刺傷事件の現場「ニューラテンクォーター」 知られざる舞台裏を元社長が語り尽くす(前編)

 贅(ぜい)を尽くした内装に最高級の音響、そして海外から招かれた一流ミュージシャンたち。昭和34年12月、東京・赤坂に誕生した「ニューラテンクォーター」には皇族から政財界の大物、ヤクザまでが足繁く通った。オーナー社長だった山本信太郎氏が、生島ヒロシ氏を相手に「力道山刺殺事件」の裏側などについて語り尽くした。

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生島 かつて東京・赤坂のホテルニュージャパンの地下に、「ニューラテンクォーター」という伝説のナイトクラブがありました。戦後のショービジネスを代表するお店で、プロレスラーの力道山が刺された場所としても知られています。山本信太郎さんはその社長を務められていました。本日は、当時のお話をいろいろうかがわせていただきたいと思います。まず初めに、ニューラテンクォーターにはどうして「ニュー」が付いているのか。

山本 ニューラテンクォーターができる前に、同じ場所に「ラテンクォーター」というナイトクラブがあったからです。だからニューラテンクォーターは2代目です。旧ラテンは、東京に駐留する米軍兵の慰安を名目とした社交場で、昭和28年に開店し、3年後に火事で焼失しています。児玉誉士夫先生が関わっていた店で、アル・カポネとも関係があったとされるテッド・ルーインという元マフィアがその共同経営者でした。

生島 そこもすごい場所だったのですね。

当時大学3年生だった山本氏が社長に

山本 そうした店ですから当時は客も外国人が多く、裏ではルーレットやカードのばくちをやっていました。そして火事の後、実業家でのちに外務大臣となる藤山愛一郎さんがホテルを建てることになり、その地下で店をやらないかという話が来たのです。

生島 どうして山本さんが社長になられたのですか。

山本 私の父のいとこに、児玉先生率いる「児玉機関」で活躍した吉田彦太郎という人物がいます。その叔父から、当時、福岡の博多で大型キャバレーを経営していた父がニューラテンクォーターの「仕切り」を頼まれ、私が上京することになったんです。当時の私は、まだ福岡大学の3年生で、夜は父の店でアルバイトをしていました。

生島 学生だったのですか。

山本 ええ。ある日、父から呼ばれ、「信太郎、お前ひとつ東京へ行ってやってみらんか。やるからには東京一、いや日本一にならにゃいかんばい!」と言われたんですね。私は東京への憧れがあったので、喜んでその申し出を受けました。

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