村田兆治のフォークボールを受けて意識が… 素人相手にも手を抜けなかった村田の素顔(小林信也)
今年9月、羽田空港の保安検査場で現行犯逮捕された後、村田兆治は憔悴していたという。指導した少年たちに謝っていたとも聞いた。
そして11月11日未明。自宅で火事があり、意識不明の重体で搬送、病院で死亡が確認された。
火気のない2階リビングで、座った状態で発見された。死因は一酸化炭素中毒。身元確認をした隣人によれば、顔にやけどもなく、きれいだったという。
村田兆治は、プロ野球で活躍した投手として、ふたつの時代で語られる。
ひとつはロッテのエースに駆け上がり、リーグ優勝と日本一の立役者となった時代。もうひとつは右肘を痛め、トミー・ジョン手術を受けた後に「サンデー兆治」として復活した第二幕。
1949年生まれの村田がドラフト1位で東京オリオンズ(後のロッテオリオンズ、現在の千葉ロッテマリーンズ)に入団したのは67年秋。2年目に6勝、4年目には12勝をマークする。だが、本格的に輝くのは、村田が「恩師」と慕った金田正一が監督に就任して2年目の74年。村田はローテーションの中核を担いパ・リーグ制覇に貢献、日本シリーズでも中日を相手に4試合に登板。抑えとして3試合に登板した後、第6戦には先発、完投して「胴上げ投手」となった。
さらに、投手・村田の黄金期は76年、初めて大台に乗る21勝を記録してからだ。その後6年間で97勝(67敗)。飛躍の最大の要因はフォークボールだ。村田の代名詞ともいえるフォークを覚えたのは76年からだった。
しかし、82年に右肘を痛め、快進撃が止まる。さまざまな治療や努力を重ねたが改善せず、村田は83年にアメリカでトミー・ジョン手術を受ける。「メスを入れたら投手生命が終わる」といわれた時代。約2年間のリハビリを経て、84年の終盤に復帰。本格的に再始動した85年には開幕11連勝を飾り、17勝5敗でカムバック賞を受賞した。投手が手術を受けて復帰できる事実を身をもって証明した村田は、その後の投手たちに希望を与える先駆者となった。
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