驚愕の新説「関ヶ原の戦いはあっという間に終わった!?」――「西軍一挙崩壊」論は本当か?
西暦では区切りもよく1600年。豊臣秀吉の死から2年で、日本全国の武将のほとんどが東軍と西軍とに分かれて戦った関ヶ原合戦が起こる。日本近世の転換点となった「天下分け目の戦い」である。その経緯は次の通りである。
西軍に遅れて、東軍も朝方には布陣を終えた。当日朝霧が深かったために視界がきかず、両軍とも戦端を開くことができないままに陽が明けて時間が推移していた。そのような模様眺めの状況であったとき、先鋒の福島正則隊の前を横切って、井伊直政の部隊が抜け駆けし、負けじと福島の鉄砲隊が正面・天満山宇喜多秀家の陣営に一斉射撃、いよいよ開戦の火蓋が切られる。
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一方、笹尾山に布陣する石田三成の陣地には、黒田長政、細川忠興らの隊が襲いかかる。その後、激しい戦闘のまま両軍の一進一退が続くが、西軍に属し、家康の本隊もまとめて挟み撃ちにできるはずの南宮山の毛利隊は動かず、眼下で繰り広げられている戦闘を松尾山から見下ろしている小早川秀秋隊もそのまま。霧が晴れた10時頃には、家康が本隊をさらに西に移動する。
そんな中、遂に情勢が動く。静観をきめていた小早川隊が下山、同じ西軍の大谷隊に突撃したのだ。さらに、小早川隊の裏切りに呼応し赤座、小川、朽木、脇坂隊も追随し、大谷隊は崩壊。小早川の反撃で浮き足だった西軍に態勢立て直しの機を与えず、東軍は勢いに乗じて石田隊に襲い掛かってこれを壊滅させ、その後、西軍は小西隊、宇喜多隊とドミノ的についえ去っていき、敗走した兵士たちは伊吹山の方面に逃げ去っていった。
……というのが、これまで数々の小説やテレビ番組、映画などで描かれてきた戦いのプロセスである。ところが当時のいくつかの一次史料を読むと、そんな戦いはなく「あっという間に、西軍は戦いに破れて敗走した」と記されているというのだ。もしこれが本当なら、たとえば、来年予定されている大河ドラマ「どうする家康」最大の見せ場がなくなってしまうことにもなりかねない。これはいったいどうしたことか。
さて、その真偽について、関ヶ原戦研究の第一人者である国際日本文化研究センター名誉教授・笠谷和比古氏が、新刊『論争 関ヶ原合戦』で、この関ヶ原の戦い「一瞬で終了」説について詳しく考察している。同書の記述を再編集して、それら新説を検証してみよう。
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吉川広家やキリシタン宣教師は「あっという間に」
関ヶ原合戦は開戦とともに、あっという間に終わったとする説がある。これは吉川広家の報告書状に、東軍側は石田三成らの西軍を「即座に乗り崩した」という記述があり、またキリシタン宣教師たちの報告にも、戦いはあっという間に終わったと記されていることなどを根拠にしてのことである。イエズス会通信にある「あっという間に」というのは、吉川書状などにある「即座に乗り崩した」という表現を聞いてのものと推測される。
しかしながら、この「即座に乗り崩し」というのは当時の武将たちの、勝利を収めたときの常套表現と言って差し支えない。「手もなく簡単に片付けてやった」という口癖のようなものであって、本当に「あっという間に」であるかは定かではない。
例えば、長篠の合戦の勝利を報じた織田信長の書状[細川藤孝宛]にも「即座に乗り崩し」の表現がある。長篠の合戦は明け方の6時から始まり午後2時におよぶ、8時間を要した長時間の戦いであったけれどもである。
半月かかっても「即座に乗り崩し」
この関ヶ原合戦の中では、伏見城の攻略を信州上田城の真田昌幸に報じた豊臣奉行・大老連署状[石田三成・三奉行・宇喜多秀家・毛利輝元]においても「即座に乗り崩し」の表現が用いられている。伏見城攻略は実に半月におよぶ長期戦であったにもかかわらず、平然と記されている。
さらに関ヶ原合戦ののち、九州の島津を追討するという流れになるのであるが、そこでも「(島津を)即座に乗り崩す」という表現が見られる。島津征伐となると伏見城攻略ぐらいで済むような話でもなかろう。
「即座に乗り崩し」という表現は、それぐらいの意味のものでしかないということだ。
しかし、キリスト教の宣教師たちはその言葉を真に受けて、「(関ヶ原合戦は)あっという間に終わった」という認識を示していたという訳であった。
合戦時間のセオリー
そもそも関ヶ原合戦について午前10時頃から始まって、あっという間に終わったというような言説は、当時の合戦のセオリーを踏まえないことから生じた誤解と言わなければならない。当時の戦いにおいて、明け方までに両軍の布陣が完了しておきながら、昼近くの10時になってようやく開戦するなどということはまずないことである。
当時の合戦における基本形は、両軍がともに布陣を完了していたという状態の下では、早朝、払暁(卯の刻)とともに戦闘が開始される。そして夕方、いわゆる逢魔が時の頃になると戦闘を停止するというものであった。
大軍同士がすでに未明時までに布陣を完了しながら、払暁とともに開戦に及ばないということはない。数少ない例外が、大坂夏の陣における5月7日の最終決戦である。これは前日までに徳川方は大坂城攻囲の布陣を完了していたのであるが、当日は正午近くまで開戦には至らなかった。これは決戦を回避して、秀頼に大坂城からの無血退去を求める和平交渉が続けられていたが故と考えられる。
本能寺の変後の山崎の合戦は、夕刻近くになって始められているが、これは秀吉の現地到着がその時刻になったことから生じたことである。しかもこの戦いは明智方に勝ち目がなかったことから、夕刻からの開戦というやや奇襲攻撃のような形で明智方から合戦に突入していったもので、やはり変則的なものであった。
「早朝から数時間」がふつう
双方の軍の配備も完了し、正面から激突する本格的な合戦、例えば姉川の合戦、長篠の合戦などを見た場合、いずれも早朝、払暁から開戦におよんでいる。関ヶ原合戦はまさにこのような本格的合戦の典型と呼ぶべきものであり、その開戦が早朝となるのは言をまたない。
この合戦に参加した島津隊の武士神戸五兵衛が記した覚書に「夜明」から戦いが始まったことが明記されている。島津義弘が残した自伝である「惟新公御自記」においても、戦闘は数刻にわたって繰り広げられ、そのあとに小早川秀秋の裏切り出撃があったと記されている。戦闘が朝の早い時間から始まり、数刻(数時間)にわたって戦いが繰り広げられていたことを裏付けている。
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つまるところ、実際の戦闘は、すでに人口に膾炙されている「関ヶ原の戦い」の在り様であった蓋然性が高いようだ。押し寄せる東軍の攻撃に耐えて、一歩も引かない石田三成側の戦いぶりが幻で、開戦と同時に尻尾を巻いて敗走したということならば、関ヶ原合戦の戦闘シーンをスリリングに描くのはかなりむずかしくなるが、大河ドラマの脚本家はひとまずご安心召されよ。
※『論争 関ヶ原合戦』より一部抜粋・再構成。