足利尊氏は「武士の風上に置けない奴」――有名歴史家が「北条氏」を高く評価し「足利氏」を酷評した“意外な理由”
北条氏と言えば、「鎌倉殿の13人」でも描かれるように、源氏の正統を途絶えさせ、朝廷に弓を引いた非道の一族という印象を持っている人も多いかも知れない。
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しかし、戦前に皇国史観を主導した歴史家の平泉澄(きよし)は、意外なことに北条一門を「義を思う武士」と高く評価しているという。
それは一体なぜなのか? 人気歴史学者・呉座勇一さんの新刊『武士とは何か』から、一部を再編集してお伝えしよう。
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『太平記』は14世紀の内乱を叙述した軍記物である。一般に三部構成と考えられ、第一部は後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒の物語である。第一部で後醍醐天皇は基本的に善玉として描かれ、鎌倉幕府の最高権力者である北条高時は暗君として非難されている。
『太平記』第一部は、後醍醐天皇のもとに楠木正成(まさしげ)ら「忠臣」が結集する物語という側面を持つので、戦前の皇国史観では「尊皇」の思想の発露として解釈された。
輝く忠義
しかし『太平記』において後醍醐天皇の敵役である北条氏の一門と家人は、必ずしも悪人として描写されていない。特に後醍醐に味方した新田義貞が鎌倉に進撃した幕府滅亡寸前の場面で、彼らは非常に勇ましく描かれる。敗北必至の状況でありながら、彼らは最後の最後まで死力を尽くして戦う。高時が暗君であるだけに、彼らの忠義はなお一層輝く。
中でも金沢貞将(かねさわさだゆき)の奮闘は印象的である。金沢北条氏は北条氏の有力一門で、貞将はこの家の嫡男に生まれた。鎌倉幕府が健在であれば、順風満帆、何一つ不自由ない生活を送れていただろう。だが義貞が挙兵したため、これを鎮圧すべく、貞将は出陣する。関東の武士たちは次々と後醍醐方(新田方)につき、衆寡敵せず貞将は敗れる。
貞将は残兵をまとめ、高時がこもる鎌倉の東勝寺に駆け付けた。感激した高時は「この戦いが終わったら『両探題職』のいずれかに任命する」というお墨付きを与えた。
貞将は一門の滅亡が間近に迫っていると知りつつも「長年望んだ職に就くことができ、冥土への良い土産ができた」と考えてありがたく受け、最後の戦に向かった。お墨付きの紙の裏に「我が百年の命を棄て、(高時)公の一日の恩に報いる」と書き、鎧の引き合わせに入れて敵陣に突撃し、壮烈な討ち死にを遂げた。享年32と推測される。
「両探題」の解釈訂正
さて、この逸話の「両探題職」を、研究者たちは幕府の出先機関である京都・六波羅の両探題(北方、南方)と解釈してきた。しかし貞将は既に六波羅探題南方の在職経験があり、今更なっても面白くない。この時点で貞将は幕府の訴訟を統括する引付方(ひけつけかた)の一番頭人(とうにん)であり、もし六波羅探題への異動とすると、昇進どころか左遷である。
この問題に関しては、中世史研究者の熊谷隆之氏が論文「六波羅探題考」(『史学雑誌』113-7、2004年)で新説を発表した。鎌倉幕府の訴訟制度解説書『沙汰未練書』などから、この「両探題」が執権・連署(れんしょ)を指す呼称であることを明らかにしたのだ。将軍が飾り物になったこの時代、執権は事実上幕府ナンバーワンの役職、連署は執権に次ぐ役職だ。
なお高時は数年前に病を理由に執権を辞して出家していた(ただし出家後も最高権力者だった)。高時の辞職を受けて、金沢貞顕(さだあき、貞将の父)が後任の執権に就くが、反対派の激しい反発により、わずか10日で辞任を迫られた。その後、長く執権を務めていた北条一門の赤橋守時は、数日前に後醍醐方の新田義貞軍に敗れて自害している。この空席となっていた執権のポストを、高時は貞将に与えようとしたのだろう。
執権・連署にしろ、六波羅探題にしろ、幕府が倒壊寸前の状況で就いても無意味である。しかし高時には貞将の忠義に報いるすべがなかった。だから、せめて感謝の念を伝えたくて「執権に任命する」と書き付けを渡した。そんな主君の気持ちを酌んで、紙切れをありがたく押し頂く貞将。感動的な場面だ。
北条一門を評価した平泉澄
戦前に皇国史観を主導した歴史家の平泉澄は、後醍醐天皇を賛美し、後醍醐を裏切った足利尊氏を「武士の風上に置けない奴」と酷評した。だが意外なことに、後醍醐に敵対した北条一門に対しては、主君の北条高時に殉じた「義を思う武士」と評価している。敵ながらあっぱれ、ということだろう。
平泉は著書『国史学の骨髄』(至文堂、1932年)所収の論考「国家護持の精神」(初出1928年)において「一体足利方の武士は何を目標として働いたのか。もし武家の幕府を立てるというのが目標ならば、何故に初めは後醍醐天皇に御味方して北条氏を攻め、鎌倉幕府を亡ぼしたか。北条の強い間は北条の下について後醍醐天皇を攻め、官軍が優勢になってくると天皇に降参し、朝廷からの恩賞が思ったより少いと之(これ)にそむいて、又(また)幕府を立てようというのであって、火事場泥棒根性と大差ない手合であります。それで武士の中でも武士らしい武士は鎌倉幕府と共に死んで了(しま)って、足利の下についているのはカスばかりであります」と記した。
平泉は、日和見主義、功利主義の足利方と、武士の節義を全うした北条一門とを対比的に捉えている。平泉の脳裏には、『太平記』が描いた貞将の勇姿があったのだろう。
※『武士とは何か』より一部を再編集。