中国 ゼロコロナ抗議デモと天安門事件の共通点 江沢民の死と共に“社会契約”も失効か

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 厳しいゼロコロナ政策が続く中国で国民の不安が爆発している。

 中国各地で11月下旬から多数の国民が路上に出て、「仕事がしたい」「自由が必要」などと叫ぶ姿が目立つようになった。散発的な騒乱はこれまでも起きていたが、今回は「燎原の火」のごとく、あっという間に中国全土に広まった。

 国際社会が驚いたのは、デモ参加者が共産党政権や習近平総書記(国家主席)に対し公然と退陣を要求したことだ。共産党政権下では初めての出来事だ。

 ゼロコロナ政策は「物理的な封じ込め」を基本とする。新型コロナの感染確認から3年近く経つにもかかわらず、この異常な政策に固執する共産党政権の姿勢に国民の「堪忍袋の緒」が完全に切れてしまった形だ。

 若年層が主導する形で全土に大規模な抗議活動が広がっていることから、「第2の天安門事件が起きる」との観測が生まれているが、今後、共産党政権を再び揺るがす大事件に発展するのだろうか。

天安門事件での連帯

 1989年6月4日、北京の天安門広場に集まり民主化や政府の腐敗防止などを訴えていた非武装の学生や市民たちを鎮圧するため、人民解放軍が発砲、多数の犠牲者が出た。

 いわゆる「天安門事件」だ。抗議者たちの訴えは多岐にわたったが、すべての要求の背後に経済問題が存在していた。

 当時の中国は深刻なインフレに悩まされていた。

 1978年から開始された改革開放政策のおかげで都市部の住民の購買力は上昇したが、モノの供給が追いつかず、特に食料価格が高騰した。

 1985年から二桁のインフレとなり、1986年から実質賃金も減少するようになった。その後ますますインフレが激しくなり、1989年2月のインフレ率は28%に達したが、この記録は現在も破られていない。

「このままでは生活が立ちゆかなくなる」との危機感を強めた都市部の住民が大学生と連帯して数ヶ月にわたって抗議活動を続けていたというのが実態だったのだ。

 デモを強権的に抑え込んだ共産党政権はその後、外国企業を積極的に誘致するなど改革開放をさらに推し進め、インフレ退治に成功した。天安門事件に懲りた共産党政権にとって「国民の胃袋を満足させる」ことが至上命令となった。

 経済も長期にわたって高成長を続けたことから、中国では「政府がより良い生活を保障する代わりに国民は政治的要求を行わない」との社会契約が存在すると言われてきた。

 この基礎を築いたのが11月30日に96歳で死去した江沢民元共産党総書記だった。

 天安門事件への強硬な対応が当時の最高指導者だった鄧小平に見込まれ、共産党トップに就任した江は1992年に「社会主義市場経済」路線を打ち出し、高度経済成長路線を定着させたと評価されている。

 だが、現在の中国経済は急激に失速しつつあり、「今回の抗議運動の背景にも深刻な経済問題がある」と筆者は考えている。

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