「舌を切り取り、その身を吊るして……」 源頼朝の曾祖父がおこなった「残忍な刑」のすさまじい中身
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、冷酷なリアリストとして描かれながらも、源氏の嫡男として「育ちの良さ」も感じさせた源頼朝。しかし、その曾祖父にあたる源義家(よしいえ)は、身内からも恐れられるほどの「野蛮な荒くれ者」だったという。
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人気歴史学者・呉座勇一さんの新刊『武士とは何か』から、源義家に関する記述を再編集してお届けしよう。
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一般に、最初の「武家の棟梁(とうりょう)」というと、源義家の名が挙がる。源頼朝の曾祖父にあたる人物である。京都周辺の武士を傘下に収めるにとどまった従来の軍事貴族と異なり、義家は東国武士を広範に糾合したと考えられてきた。
近年の研究では、義家が多数の東国武士と主従関係を結んだという通説は否定され、その武力の主体はやはり畿内近国の武士であると指摘されている。地方ではなく京都を主な活動舞台とし、軍事的・経済的基盤を京都周辺に置く軍事貴族を「京武者」というが、義家はまさに京武者であった。
このように義家を「武家の棟梁」とみなす見解は後退しつつある。けれども、義家が他の京武者を圧する武名を誇っていたことも、また事実である。
「八幡太郎はおそろしや」
貴族の中御門宗忠(なかみかどむねただ)は日記「中右記(ちゅうゆうき)」で義家を「天下第一の武勇の士」と称賛している。また義家が亡くなった時には、「武威は天下に満ち、誠にこれ大将軍に足る者なり」と悼(いた)んでいる。
一方で、義家の死から1年半後に義家の息子の義親(よしちか)が謀反人(むほんにん)として討伐されると、宗忠は「義家朝臣、年来武士の長者として、多く罪なき人を殺すと云々。積悪の余、ついに子孫に及ぶか」と記している。義家が罪なき人を殺戮した報いを、子の義親が受けたという理解である。
義家は正四位下まで昇った貴族社会の一員であったが、他の貴族たちからは「人殺し」として蔑(さげす)まれていた。ただし、義家が忌み嫌われたのは、単に武士だったからというだけではないらしい。
後世、義家の武勇を褒めたたえるさまざまな伝説が語られた。その反面、義家は残虐さゆえに恐れられてもいた。後白河法皇が編纂(へんさん)した歌謡集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」には次の今様(いまよう、平安中期に発生した新しい歌謡)が載せられている。「鷲の住む深山(みやま)には、なべての鳥は住むものか、同じき源氏と申せども、八幡太郎はおそろしや」。
八幡太郎とは源義家の通称である。鷲が住む深山には他の鳥が恐れて住まないように、同じ源氏の武士たちの間でも義家は恐れられているというのである。なお義家の父である頼義(よりよし)の系統を学界では「河内源氏」と呼ぶ。
前九年の役と後三年の役
こうした義家像を形成するきっかけとなったのは、後三年の役である。
義家は若き日に父頼義と共に前九年の役を平定している。前九年の役は、天喜(てんぎ)4年(1056)に勃発した安倍頼時(よりとき)の反乱である(なお乱の発端は1051年まで遡る)。安倍氏は陸奥(むつ)国の奥六郡(現在の東北地方太平洋側)を実質的に支配する現地の有力豪族であった。
当時、陸奥守兼鎮守府将軍であった源頼義はこの乱の平定に当たることになる。義家も従軍し、神技のごとき射芸は後世まで語り継がれた。
頼義は苦戦の末、康平(こうへい)5年(1062)に乱を鎮圧し、安倍氏を滅ぼした。頼義が鎮守府将軍に着任した天喜元年(1053)から数えると九年が経過していた。
だが、そのおよそ二十年後、安倍氏に代わり東北地方を支配していた清原一族の後継者問題が紛糾し、ふたたび反乱が発生する。事態収拾のため、永保(えいほう)3年(1083)秋、源義家が陸奥守として現地に赴任した。後三年の役のはじまりである(「奥州後三年記(おうしゅうごさんねんき)」)。
義家が清原真衡(さねひら)に加勢したことで真衡側が優位に立つが、真衡は行軍中に病死してしまう。すると義家は敵対していた清原清衡(きよひら)・家衡(いえひら)の降伏を許し、真衡の所領である奥六郡を二分して両者に与えた(「康富記(やすとみき)」)。
ところが、この裁定に不満を持った家衡が清衡の館を急襲し、清衡の妻子一族を殺害した。別の所にいて生き延びた清衡は義家に助けを求めた(「康富記」)。調停案を破られて面子(メンツ)をつぶされた義家は家衡討伐に動く。
応徳3年(1086)、義家は数千騎を率いて清原家衡の居城である沼柵(ぬまのさく)に進撃するが、攻めあぐねている間に冬を迎えた。義家軍は大雪による寒さと飢えによって大損害を被り、撤退する(「康富記」)。
家衡の勝利を知った叔父の武衡(たけひら)は援軍を率いて沼柵に駆け付け、「名将の義家を撃退したことは清原一族の誉れである」と激賞した。そして武衡の勧めを受けて、家衡は難攻不落の金沢(かねざわ)柵に移った(「康富記」「奥州後三年記」)。かくして戦乱は長期戦の様相を呈する。
足下に「主人の首」を置いて身を吊るす
一方、家衡と清衡の仲裁に失敗した上、軍事的成果も挙がらぬ義家に対し、朝廷は批判的だった。義家は膨大な戦費をまかなうために、朝廷への砂金の貢納も怠っていた(「中右記」)。このため朝廷は正式な討伐命令を出さず、義家の「私合戦」とみなした(「康富記」「奥州後三年記」)。
苦戦に焦った義家は、朝廷の制止を無視して、なりふり構わず金沢柵を攻めたてた。それでも金沢柵は落ちず、義家は兵糧攻めに切り替えた。
金沢柵から脱出しようとした者を、老若男女を問わず、義家は容赦なく殺害した。そうすれば逃げ出す者がいなくなり、城内の兵糧が早く尽きるからである(「康富記」「奥州後三年記」)。
寛治元年11月14日、金沢柵はついに陥落した。城内に入った義家軍は火を放ち、略奪・虐殺の限りを尽くした。
捕らえられた清原武衡は助命を嘆願し、源義光(頼義の三男、義家の弟)も「降伏した者の命を助けるのは、昔からの武士の作法です」と口添えした。しかし義家は「降伏とは、戦場を逃れた者が後で罪を悔いて出頭してくることをいうのだ。武衡は戦場で捕らえられ、情けなくも命乞いをしている」と述べて、武衡を斬首した(「奥州後三年記」)。
また、武衡の郎党で義家の父頼義を侮辱した千任(せんとう)に対して、義家は残忍な刑を科している。金箸で歯を突き破って舌を引き出して切り取り、その身を木に吊るして、足下に主人である武衡の首を置いた。千任は主人の首を踏まないよう足をかがめていたが、ついに力尽きて武衡の首を踏んでしまったという。変装して逃げようとした家衡も見破られて殺された(「康富記」「奥州後三年記」)。
凄惨な死闘の末に
けれども、朝廷の討伐命令なきままに戦争を強行した義家に恩賞は与えられなかった。一方、清原一族を滅ぼした清衡は実父の藤原姓に復し、奥州の支配者となった。奥州藤原氏の祖と仰がれる藤原清衡の誕生である。清原氏の内紛に介入して奥州を支配せんとした義家の野望はここに潰(つい)えた。
辺境での長きにわたる戦争で凄惨な死闘を体験した義家は、明らかに他の京武者とは異質な存在であった。義家没後、衰退する河内源氏をしり目に台頭する伊勢平氏は、ここまで苛酷な戦争を経験していない。
義家の末裔である頼朝が治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の内乱(いわゆる源平合戦)を勝ち抜き、平家を滅ぼしたことは、決して偶然ではないだろう。さらに頼朝は奥州藤原氏を滅ぼし、武士の頂点に立った。義家の無念を晴らすかのように。
※『武士とは何か』より一部を再編集。