「ブチ切れた源頼朝」が法皇に放った暴言をめぐり大論争 人気歴史学者が出した「納得の結論」とは
「日本国第一の大天狗」――後白河法皇の“裏切り”にブチ切れた源頼朝が、このように法皇を罵ったという史料が遺されている。
この「暴言」の真意をめぐっては、これまで多くの歴史学者が論争を繰り広げてきた。なぜ頼朝は後白河法皇を「天狗」呼ばわりしたのか。そもそも、この発言は本当に後白河に向けられたものだったのか。
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人気歴史学者・呉座勇一さんの新刊『武士とは何か』でも、この論争について考察している。その一部を再編集して紹介しよう。
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平家滅亡後、源頼朝・義経兄弟の関係は悪化していき、ついに決裂する。文治元年(1185)10月16日、源義経は源頼朝追討の宣旨を発給するよう後白河法皇に迫った。同月18日、後白河は朝廷内の反対論を押し切り、源義経・行家に宣旨を与えた。
宣旨を獲得した源義経・行家は早速、軍勢を募った。義経らがこのタイミングで挙兵したのは、頼朝が主催する勝長寿院(しょうちょうじゅいん)の落慶供養に参加するために東国武士が鎌倉に集結し、京都周辺に軍事的空白が生まれたことが一因である。
ところが、義経の期待に反して、義経の募兵に応じる者は全くいなかった。一方、義経・行家の反乱を知った頼朝は、落慶供養を終えると、ただちに御家人(ごけにん、将軍直属の家人)たちに上洛命令を出した。
10月29日、頼朝は自ら出陣した。11月1日、頼朝軍は駿河国黄瀬川(きせがわ、静岡県駿東郡清水町)に着陣する。皮肉なことに、ここ黄瀬川は、頼朝・義経兄弟が涙の対面を果たした地である。
京都で頼朝勢を迎え撃つことを断念した義経と行家は、11月3日、態勢を立て直すべく、九州を目指して出京した。その数、わずか200騎ほどだったという。翌4日、淀川(神崎川)河口の摂津国河尻で待ち構えていた現地武士の太田頼基と交戦し、これを打ち破った。
だが、5日夜に大物浦(だいもつのうら)から出航した義経一行は激しい暴風雨に見舞われて難破し、散り散りとなって逃走した。義経の京都脱出を知った頼朝は、黄瀬川から鎌倉に戻った。
義経の謀反は天魔のしわざ?
後白河は頼朝追討の宣旨を義経に与えたことを頼朝に弁明する必要に迫られた。「吾妻鏡」によれば、11月15日に後白河側近の高階泰経(たかしなやすつね)の使者が鎌倉に現れ、頼朝宛の書状を持参した。そこには「行家・義経の謀反のことは、ひとえに天魔がなすところだろう。追討宣旨を出さなければ宮中に参上して自殺すると彼らが脅したので、身の危険を避けるために便宜的に宣旨を与えただけで、法皇様の本心ではない」といったことが書かれていた。
この高階泰経書状に対する頼朝の返書が京都に届いたのは、九条兼実の日記「玉葉」によると、11月25日の夜である。その内容は、「行家・義経の謀反が天魔のしわざであるとのご説明には全く納得できません。そもそも天魔とは、仏法に妨げをなし、人々に煩いをもたらすものです。私頼朝は、数多(あまた)の朝敵を降伏させ、政務を後白河法皇にお返しした忠臣です。どうして私がたちまち反逆者扱いされ、深いお考えもなく追討宣旨を出されるのでしょうか。行家・義経を捕らえられなければ、諸国は疲弊し人民は滅亡することになるでしょう。日本国第一の大天狗とは他ならぬ御自身のことではないでしょうか」というものだった(11月26日条)。
「大天狗」は誰を指しているのか
この書状は古くから知られており、頼朝が後白河を「日本国第一の大天狗」と非難したことが注目されてきた。しかし1990年に歴史学者の河内祥輔(こうちしょうすけ)氏が、「日本国第一の大天狗」は後白河法皇ではなく高階泰経を指すという新説を提唱した(『頼朝の時代』文春学藝ライブラリー、2021年)。頼朝に弁明の書状を書いたのは高階泰経であり、頼朝の返書も泰経宛てに書かれている。だから後白河ではなく、泰経を非難しているというのだ。
この河内説に対しては、その後、多くの批判が提出された。第一に、後白河側近の高階泰経が後白河の意向を伝えるために頼朝に書状を書き、頼朝が泰経宛ての返書で応答することは以前から行われていた。泰経はメッセンジャーにすぎず、頼朝の泰経宛て書状を後白河が読むことは最初から織り込み済みである。
前掲の「玉葉」によれば、頼朝の書状を持参した使者は後白河の御所にやってきて、泰経が不在と知ると、書状を放り投げて去ったという。純粋に泰経宛ての私信であるなら、泰経の私邸に書状を届けるだろう。使者は頼朝の書状を後白河に読ませることを前提に動いているのである。
第二に、「被仰下(おおせくださる)」「言上如件(くだんのごとし)」など、泰経個人への単なる私信にしては言葉遣いが丁寧すぎる。当時、頼朝は従二位、泰経は従三位で、頼朝の方が格上である。それ以上に、頼朝は全国の武士を束ねる武家の棟梁であり、泰経は後白河に追従するだけの成り上がり者にすぎない。河内氏は頼朝の慇懃無礼と解釈しているようだが、泰経ごとき小物を追いつめても、頼朝にとって政治的メリットはない。頼朝の狙いはあくまで後白河への圧力であり、そのことを丁重な語法で示しているのだ。
第三に、頼朝書状の内容をよく読むと、泰経を「日本国第一の大天狗」と呼んでいるとは解釈できない。頼朝の反論の論理構成は、「天魔とは人々を苦しめるものである。であるならば、(平氏滅亡でせっかく平和になったのに)行家・義経をそそのかして世を乱そうとする者こそが日本国第一の大天狗(天魔)であろう」というものである。行家・義経に頼朝追討宣旨を与えたのは後白河なので、大天狗は後白河であって泰経ではない。
「武士の時代」を告げる「名ぜりふ」
なお最近、歴史学者の菱沼一憲氏が「大天狗」を行家・義経とみなす説を提唱した(『源頼朝』戎光祥出版、2017年)。けれども、この説も成り立ちがたい。後白河の弁明は「行家・義経の謀反は、人間(この世のもの)には責任がない」というものだからである。
南北朝時代の軍記物「太平記」には、護良(もりよし)親王ら南朝方の怨霊が天狗と化し、室町幕府関係者にとりついて、幕府で内紛が起こるよう画策するシーンがある。つまり天狗は、人間に憑依(ひょうい)して、悪の道へとそそのかすものと考えられていた。
要するに後白河は「行家・義経は天魔に魅入られたのであって、(自分を含む)人間がそそのかしたわけではない」と弁解しているのだ。現代風に言うと「魔が差した」「悪魔のささやき」といったところか。
この無責任な言い訳に対して頼朝は「謀反をそそのかしたのは後白河法皇御自身でしょう」と反駁したのである。実際、頼朝書状を受けて後白河はただちに九条兼実に善後策を相談しており、後白河は「日本国第一の大天狗」の言葉が自分に向けられていることを認識していた。
河内氏が天狗=泰経説を唱えたのは、「後白河に向かい、かかる無礼極まる言辞を弄することが、頼朝にできようはずはなかった」と考えたからである。しかし、それは先入観ではないだろうか。以上で検討したように、頼朝は後白河院にあえて無礼な発言をしたと解釈する方が自然である。
むしろ、至尊の地位にいる後白河を頼朝が容赦なく痛罵した点に、価値観の大転換が見てとれよう。それは、「武士の時代」の到来を象徴する「名ぜりふ」であった。
※『武士とは何か』より一部を再編集。