「選手の頃からマネジメントだけをやってきた」サントリー・土田雅人の人生を決めた中3の決断(小林信也)
ラグビーはマネジメント
10月半ば、サントリーに土田を訪ねた。
「アスリート列伝でしょ? 自分はプレーヤーじゃないからな」、土田はいきなり言った。選手の時代もあったでしょ、私が口を挟むと、キッパリ続けた。
「僕の取柄はキャプテンシー。選手の頃からずっとマネジメントだけをやってきたようなものだから」
秋田工でチームの中心を任された頃から、土田はフォワードのプレーヤーではあったが、試合中も試合前後も、やっていたのは「マネジメントだ」と言うのだ。
一般的に彼の位置はフランカーだとしても、彼自身は「キャプテン」というポジションで戦っていた。
「ラグビーは向いていたんでしょうね。野球みたいに、監督の指示で動くのでなく、試合が始まれば全部選手が判断できる競技だから」
高校3年で高校日本代表に選ばれた。そこで平尾誠二に出会う。
「平尾もシャイで、あまりみんなと話さなかった。主将(キャプテン)と副将(バイスキャプテン)という関係で喋るようになった」
自然と進路の話になった。土田はイギリス人コーチのいる筑波大に関心を抱いていた。しかし、「同志社、面白いで」、平尾の言葉で気持ちを変えた。土田が高3の冬、同志社大は初めて大学王者になった。早慶明のような堅苦しい伝統に縛られない。選手たちの主体性に任されていた。土田は、平尾と共に大学選手権3連覇を遂げた。
「サントリーに入ってからも、平尾には大事な場面で助言をもらいました。ヘッドコーチになった時も、主将は誰がいいか、平尾に相談したら、『永友(洋司)がええんちゃう? お前のチーム暗いから』って。その永友キャプテンで神戸製鋼の連覇を止めたんです(笑)」
中3の決断が人生を開いた。だが、決して簡単な道でもなかった。
「入部時56人いた同級生が、夏休みには14人に減っていた。7月末にある恒例のOB集合日はとくにきつかった。選手より大勢のOBが指導する」
理不尽な練習もあった。土田は負けなかった。
「原点を思い出すため、今年も7月末には秋田工のグラウンドに行きました」
珍しく少し引きつった顔で土田が笑った。
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