「選手の頃からマネジメントだけをやってきた」サントリー・土田雅人の人生を決めた中3の決断(小林信也)

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 東京・府中。ビール工場から近い所にサントリーのグラウンドがある。土田雅人が入社した時は土だった。

 当時、平日の練習は夜7時から。選手は配属先から通常勤務を終えて練習に来る。練習を終えた9時過ぎに、営業担当の選手がスーツに着替え、担当する店の営業に行くことも珍しくなかった。銀座へ、新宿へ、当然のように戻って行った。

 私はそんな彼らを取材し、「週刊漫画アクション」で連載した。土田が現役を退き、すぐにヘッドコーチを任された時期。スター軍団と呼ばれながら勝てないチームを一変させ、社会人王者に導いたのが土田だった。

 よく晴れた土曜日、全体練習後に、何人かが個人練習をしていた。私はグラウンド脇の雑草に腰を下ろし、キッカーがゴールに向かって楕円球を蹴る光景を見ていた。不意に土田が現れた。人懐っこい笑みを浮かべて隣に腰を下ろした。やがて、足を投げ出して話し始めた。

 それとなくインタビューを頼んでいたが、約束はなかった。土田なりの気遣いなのか、たぶん彼独特の距離の作り方なのだろう。

 私は、なぜ秋田工を選んだのか?と聞いた。土田は勉強のできる少年だっただろう。だが工業高校を選んだ。中学は野球部、ラグビーの経験は遊んだ程度しかないのに。

「全国で優勝できる部活をやりたかった。能代工のバスケットか秋田工のラグビー。ちょうど花園の決勝で秋田工が大工大高と戦うのをテレビで見た。負けたけど、秋田工なら全国優勝を目指せる」

文武両道を体現

 その決断が、人生をどう変えるのか? 私は人ごとでなく、自分に刃が向いた思いでそれからの土田を見ていた。私は中3の夏、地元でいちばん強い私立高で野球をしたいと母に告げたが、猛反対を受け翻意した。あの日以来、母とのわだかまりは消えなかった。

「エリートコースを外れた」と言われそうな選択。だが土田は同志社大に進み、人気企業のサントリーに入社する。それから37年。今年6月、土田は日本ラグビー協会会長に就任した。記者会見で岩渕健輔専務理事は次のように語った。

「日本協会が推進する中期戦略計画にあたって『高いビジネスに関する知見』と『ラグビーに対する深い知見』を兼ね備えている人物が必要だった」

 文武両道を体現する人材がラグビー界には数多いる。宿澤広朗、上田昭夫、平尾誠二。

 土田はサントリーフーズ社長、サントリービバレッジソリューション社長を経て、サントリー株式会社専務執行役員を務めている。

 東京支社プレミアム営業部長時代には、プレミアムモルツの新規販路開拓を果たし社長賞を受賞した。

「徹底的に銀座の有名店に営業してモルツを置いてもらった。銀座の久兵衛にモルツがあったら、イメージが変わるでしょ」、それが土田ならではの戦略だ。

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