トレードで野球人生が“暗転”…セ・リーグでは全く活躍できなかった3人の名選手
「オレは大変なところに来たな」
打者では、前出の高橋と同時期に阪急の主砲として活躍した加藤英司も、セ・リーグでは活躍できなかった。
1970年代の阪急黄金期に首位打者2回、打点王3回と“天才打者”の名をほしいままにした加藤は1983年、「マンネリ化からの脱却」(上田利治監督)という理由から、水谷実雄との交換トレードで広島に移籍した。
だが、同年は水谷が打点王のタイトルを獲得したのに対し、加藤はシーズン中に肝炎を患い、出場75試合で打率.261、10本塁打、36打点と不本意な結果に終わる。
広島に単身赴任した直後、大阪から訪ねてきた夫人とタクシーに乗って夕食に出かけたところ、運転手が無線に向かって「今度来た加藤なあ。もう女つくってフラフラしとるで」と報告するのを聞き、「オレは大変なところに来たな」と衝撃を受けたという。
「我が道を行く」タイプながら、繊細さを併せ持つ加藤が、地元ファンにプライベートまで監視されるような土地柄に合わなかったことは想像に難くない。
同年のドラフトでポジションの重なる小早川毅彦が入団すると、加藤は年明け早々、たった1年で近鉄にトレードされた。
パ・リーグに戻った加藤は、1年目に3、4番を打ち、130試合フル出場すると、翌85年にも打率.286、26本塁打、78打点と復活をはたす。だが、コーチとの確執や野球に対する貪欲さが足りないチームへの不満などから、86年、37歳にして4球団目の巨人へ。
「僕は静岡生まれ。やはり巨人のユニホームは、子供のころから特別な憧れがあった」と、あと「36」に迫っていた通算2000安打達成に意欲を燃やした加藤だったが、DH制のないセ・リーグでは、代打中心の起用になり、わずか23安打に終わった。
巨人を自由契約になったあと、年俸大幅ダウン(4500万円→1500万円)で南海移籍が決まり、3度目のパ・リーグで現役最終年を迎えた加藤は、87年5月7日の阪急戦で本塁打によって2000安打を達成。「本当に野球を続けて良かった」と感激に浸り、史上23人目の快挙を手土産に同年限りでユニホームを脱いだ。
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