「北条泰時は家族思いの人格者」は本当か? 美談のウラに隠されたカリスマなき指導者の「苦肉の策」
日本初の武家法典「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」を定めた北条泰時。公平無私の性格に加えて気配りも上手だったとされ、家族や御家人などへの思いやりに満ちた美談にも事欠かない。
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しかし、たいていの美談にはウラがあるもの。人気歴史学者の呉座勇一さんは、泰時が人格者としてふるまった背景には、その権力基盤の脆弱さがあったと指摘する。
呉座さんの新刊『武士とは何か』から、北条泰時に関する記述を再編集して紹介しよう。
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貞応(じょうおう)3年(1224)、北条義時が亡くなると、長男の泰時が父の跡を継いで執権に就任した。
北条泰時の最も著名な事跡は、日本史上初の武家法典である御成敗式目の制定である。御成敗式目を制定することで、評定(ひょうじょう、幕府の最高議決機関)による公平無私の裁判を実現しようとしたのだ。
弟の救出に向かった泰時
とはいえ、泰時が「公」より「私」を優先したこともある。寛喜3年(1231)9月27日、泰時の弟である朝時(ともとき)の屋敷に悪党が討ち入った。その報に接した時、泰時は評定に出席していたが、ただちに飛び出し、朝時邸に向かった。
朝時は外出中で、賊も退治されて事なきを得た。ところが、泰時の家人の平盛綱が泰時を諫めた。「執権という幕府の重職にいらっしゃる方が軽々しく動くべきではありません。仮に幕府を揺るがすような巨大な敵であったとしても、使者を派遣して状況を把握し、この盛綱らに戦いを任せるべきです」と。
これに対して泰時は言った。「おまえの申すことも分かるが、家族あっての人生である。目の前で兄弟を殺害されたなら、人々から非難を受けるだろう。そうなれば執権職など何の意味もない。武士としてとるべき行いは、誰であっても変わらない。朝時が敵に包囲されたということは、他人にとっては小事かもしれないが、兄である私にとっては、建暦(けんりゃく)の和田合戦・承久の乱に匹敵する大事件である」と。このやりとりを後で知った朝時は、「子孫に至るまで、泰時の家に忠義を尽くす」と誓ったという(「吾妻鏡」)。
美談のウラに隠された深謀遠慮
評定という幕府の公的な仕事をなげうって弟を救うために出撃した泰時。そのことに感激した朝時。兄弟の固い絆がうかがえる美談、と言いたいところだが、ことはそう単純ではない。
朝時の母は比企朝宗(ともむね)の娘であり、泰時の母より身分が高かった。朝時は祖父時政の名越(なごえ)邸を受け継いでおり、泰時に準ずる権威を備えていた。
朝時は承久の乱では北陸道軍の大将軍として北陸の鎮定に功績があり、乱後、加賀・能登・越中・越後など北陸道諸国の守護を兼任している。加えて、九州の筑後・肥後・大隅守護にも就任しており、実力的にも泰時に次ぐ存在だった。北条氏研究の専門家である秋山哲雄氏は、朝時は「北条一族や幕府内のほかの御家人の中でも特別な立場にあった」と指摘している(『北条氏権力と都市鎌倉』吉川弘文館、2006年)。
朝時は権勢をふるう一方で、幕府中枢の重要なポストに就いたことが少ない。朝時が泰時に頭を下げることを嫌ったのか、泰時が潜在的なライバルである朝時を警戒して要職に就けなかったのかは判然としない。だが、いずれにせよ、両者の間に溝があったことは疑いない。
仲が悪いからこそ、泰時は朝時を救おうとしたのではないだろうか。二人の不仲は公然の事実だから、もし朝時の危機を泰時が座視したならば、ますます不仲説が喧伝されてしまう。幕府に動揺が走り、ひいては政変の火種になりかねない。泰時の行動は、不仲説を払拭するためだったと考えられる。
カリスマ不足を補う苦肉の策
泰時は、朝時以外の弟たちにも配慮している。父の義時が死去すると、その遺領の配分を泰時が行ったが、自分はわずかしか相続せず、弟や妹たちにほとんど与えてしまった。不思議に思った北条政子が「どういうつもりなのか」と尋ねたところ、泰時は「執権職を拝領しましたので、領地はいりません」と答え、その無欲さ謙虚さに政子は感涙したという(「吾妻鏡」)。
承久の乱で東海道軍の大将軍、全軍の総大将を務めた泰時が義時の跡を継ぐことは、後世からは当然に映る。だが義時死没直後に、泰時の弟である政村(まさむら)を擁立する陰謀が発覚している(伊賀氏の変)。泰時が幕政を主導することは、決して自明ではなかった。政子の後押しによって泰時の執権就任が確定するが、弟たちの反発を避けるため、泰時は多くの所領を分配せざるを得なかったのだ。
泰時を擁立した政子も翌年には亡くなる。政子という後ろ盾を失った泰時の権威は十分ではなかった。
評定衆創設による集団指導体制の導入、御成敗式目による法の支配の開始は、こうした苦境を打開するための措置だった。カリスマ性に欠ける泰時が統治の正統性を主張するには、合議と法律によって周囲の同意を調達する必要があったのだ。
同時代人からも後世の人からも人格者と称賛された泰時。だが彼の気配りは、先天的な気質に起因するだけではない。脆弱な権力基盤を補う政治的行為でもあった。後代に理想視された泰時の「執権政治」の実態は、苦肉の策の産物といえよう。
※『武士とは何か』より一部を再編集。