「ハイサイおじさん」の喜納昌吉、なぜ沖縄から嫌われる? YMOにも影響を与えた異能の音楽家の半生

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民主党政権樹立の陰の功労者

 喜納昌吉はまた、2009年8月30日の総選挙で自民党から政権をもぎ取った民主党の勝因である「トロイカ体制」(小沢一郎、鳩山由起夫、菅直人の三人による挙党一致体制)の構築に尽力した。性格も思惑も違う三人の同盟はその後崩れ去るが、昌吉は民主党政権樹立の陰の功労者といわれている。

 2010年の参院選挙で、昌吉は民主党から比例区での再選を目指したが、当選ラインに達する票は集められなかった。昌吉の選挙運動にもその原因はあったろうが、沖縄政界内の味方の足の引っ張り合いが当選を阻んだともいわれた。

 しかしながら、落選後も昌吉は政界にとどまり、民主党沖縄県連の代表として、現在の沖縄振興予算の主要部分を構成する一括交付金の創設に貢献している。

 いずれにせよ、喜納昌吉は参院議員としてもけっして浮いた存在ではなく、結果を残してきた政治家であったが、この点はほとんど評価されていない。

 調べてみると、昌吉は利権や党派益・組織益を優先した政治家の行動に対して「否」を突きつけてきたことがわかる。「大切なのは人であって政党や組織ではない」という、素朴だが説得力ある政治倫理に基づいて行動してきたのである。昌吉のこうしたラジカルな姿勢は、政党や労働組合には脅威となり、沖縄の政治から昌吉が排除される最大の要因となった。

「オール沖縄」批判

 たとえば昌吉は、1995年9月に起こった米軍兵士による少女暴行事件の後、「少女の涙に虹がかかるまで」という歌を作っている。これは1996年6月に発生した別の少女暴行事件で亡くなった少女の霊を慰める歌だ。

 犯人は本土から流れてきた日本人だったが、この時、犯人が日本人だとわかったとたん、沖縄の人びとの怒りは冷めてしまった。犯人が米軍人なら怒りをぶつけ、そうでなければ冷めてしまう沖縄の政治的風潮に反発する昌吉の思いが込められたこの歌を聴いて、基地反対運動に水を差す歌だと怒り出す活動家もいたという。

 また、喜納昌吉は普天間基地の辺野古移設に反対する運動の核となっている「オール沖縄」を批判してきた。オール沖縄は、自民党沖縄県連幹部だった翁長雄志前沖縄県知事が、自民党の一部と社会民主党や共産党などを糾合して組織した運動体だ。翁長は政治家たちをオール沖縄に誘うに当たって、「基地に反対すればカネになる」と説得したという。昌吉はこれに憤慨し、オール沖縄への参加を拒むと同時に、オール沖縄に参加して党派益や組織益を守ろうとする政党や労働組合とも決別した。

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