「ハイサイおじさん」の喜納昌吉、なぜ沖縄から嫌われる? YMOにも影響を与えた異能の音楽家の半生

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参議院議員へ

 1990年代に音楽家としてのピークを極めた喜納昌吉は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ以後、不安定化する世界情勢に直面して危機感を強め、活動家として立ち上がることを決意する。2003年3月の米英によるイラク侵攻直前には、バグダッドに飛んで戦争回避を訴えながらデモ行進に参加し、現地でライブも催行した。昌吉のこの行動は「フセインを利するもの」として批判されたが、人と人との和合こそ平和の礎と考える昌吉は動じなかった。

 米英のイラク侵攻を支持した日本政府に失望した昌吉は、2004年の参院選に民主党の比例区候補として出馬し、約18万票を集めて当選した。地元・沖縄には、誰に対しても思ったことを口にする性格の昌吉を嫌う人々が少なからず存在したが、参院議員になったことで、昌吉に対する抵抗はいっそう強まった。「コザの不良児だった昌吉に政治家が務まるわけがない」「ヒッピーの昌吉が国会議員になるなんて沖縄は終わりだ」という声まであった。

 昌吉嫌い、昌吉外しが増加するのはこの時期からのことだ。

 議員となった喜納昌吉は、琉球王朝時代の衣装をまとい、三線片手に意気揚々と国会に初登院したが、衛視に「楽器の持ち込みは禁止」と注意されている。メディアは笑い話として伝えたが、これは、規則、法律、制度の存在が政治の世界のインフラであると、1年生議員の喜納昌吉が思い知った瞬間だった。

受験生の息子と深夜まで勉強

 参院議員になってからの昌吉は、「受験生の息子と議員会館で机を並べて深夜まで勉強した。人生の中でいちばん勉強した期間だった」という。

 参院時代の喜納昌吉は、外交防衛委員会、沖縄及び北方問題に関する特別委員会などに所属し、6年間で43回質問に立っている。同期の参院議員のなかでは平均的な数字だが、これ以外に政府が文書での回答を義務付けられる質問主意書を81本提出している。これは同期中でもトップクラスの提出数だ。

 国会での論戦も質問主意書も、理念的・観念的なテーマは少なく、予算や制度に関係のある具体的なテーマが多い。入念な事前の調査がなければできない質問がほとんどを占めていた。

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