「ハイサイおじさん」の喜納昌吉、なぜ沖縄から嫌われる? YMOにも影響を与えた異能の音楽家の半生
「すべての武器を楽器に」
1990年代初めには、同じ沖縄出身のりんけんバンドやネーネーズとともに沖縄音楽ブームをけん引した。喜納昌吉の90年代の活躍には目覚ましいものがある。1991年の紅白歌合戦、1994年のユネスコ肝いりのライブ「AONIYOSHI」(ボブ・ディラン、ジョニ・ミッチェルらと共演。会場は東大寺大仏殿前庭)、1996年のアトランタ五輪など、内外のビッグ・イベントに招かれて演奏し、好評を博した。
「花~すべての人の心に花を~」は、1964年の東京五輪の閉会式で、各国選手が手に手を取りあって友好を確かめている場面をテレビで見た16歳の昌吉少年の感動がモチーフになっている。以来、「祭りこそ平和の原動力」が昌吉の信念となり、「音楽を通じて世界平和を実現する」という強い使命感を持って音楽活動に臨んできた。
昌吉にとって、音楽と平和は分かちがたく結びついており、「すべての武器を楽器に」というスローガンも掲げている。平和への思いを伝えたいがために、MCが長引いて演奏時間が大幅に削られることも珍しくなかったが、終盤に入ると生きる喜びを全身で表現するカチャーシーを聴衆が舞い踊り、興奮のうちに大団円を迎えるというスタイルのライブには定評があった。
「昌吉外し」の初期の事例
「ハイサイおじさん」のヒットから間もなく、喜納昌吉を、音楽家を超えた存在として受けとめて異例の特集を組んだ雑誌があった。若者向けのサブカルチャー総合誌だった「宝島」(JICC出版局=現・宝島社)の1979年8月号である。「魂を起こす旅 喜納昌吉」と題されたこの特集は、元社会民主党衆院議員で現在、東京・世田谷区長を務める保坂展人(当時23歳)が持ち込んだ企画で、約60ページに及ぶ特集のほとんどを保坂が執筆している。昌吉とともに過ごした約1カ月の体験をまとめたもので、既存の価値体系への懐疑、自然や歴史との共生、歌と踊り(祭り)による慈愛に満ちた平和な世界の創造といった、ヒッピー・ムーブメントに通ずる喜納昌吉の考え方は、その後の保坂の人生に大きな影響を与えた。
他方、反体制的な市民運動家として東京で活動していた保坂の人脈は昌吉の活動範囲を拡張し、ジャーナリズムの昌吉に対する注目度も高まっていく。
フジロックなど「日本の野外フェスの原点」といわれる「いのちの祭り」(1988年8月1日~8日初開催)も昌吉の発案であり、保坂や彼と親しい人々が昌吉を支援するかたちで始まったものだ。当初昌吉は「縄文と弥生の出会い」というイメージを元にしたスケールの大きな文化運動として構想していたが、実行委員会は昌吉を排除する方向に動き、「反核(NO NUKES)」が前面に出た、たんなる政治的ムーブメントに変質してしまった。これは沖縄での出来事ではないが、「昌吉外し」のもっとも初期の事例だ。
[5/9ページ]