正しい者が最後には報われるべき――初の武家法典「御成敗式目」を制定した北条泰時が見せた「大岡裁き」
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、俳優坂口健太郎さんが演じる北条泰時が人気を博している。父・義時の跡を継いで鎌倉幕府の第3代執権に就任し、日本史上屈指の名宰相と評価されてきた人物だ。
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泰時の事跡として日本史の教科書に必ず掲載されているのが、史上初の武家法典「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」の制定である。公平・公正な裁判基準を細かく定めたものだが、そのような法典を作った泰時がガチガチの堅物だったかといえばそうではなく、とても人情味がある人物だったという。
人気歴史学者・呉座勇一さんは、新刊『武士とは何か』において、泰時がある時に行った「大岡裁き」について解説している。同書の一部を再編集して、泰時が見せた意外な横顔を紹介しよう。
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北条泰時の最も著名な事跡は、日本史上初の武家法典である御成敗式目の制定だ。御成敗式目制定の趣旨については、鎌倉の泰時が、京都にいる弟の重時に送った手紙の写しが残っており、そこに詳しく記されている。
泰時は手紙の中で、御成敗式目は武家のための法律であり、律令など朝廷の法令を否定する意図はないと説明している。朝廷の法令は尊いものだが難解であり、武士や百姓の中で理解できている者は百人千人のうち、一人や二人もいない。そこで、彼らも理解できる簡素な法律を制定したのである、と泰時は述べている。
また泰時は、身分の上下にかかわらず、公平・公正に裁判を受けられるよう、裁判基準を細かく定めた、と語っている。
御成敗式目に基づいて実際に裁判を行うのは、幕府の最高議決機関である評定(ひょうじょう)のメンバー、つまり評定衆である。執権の泰時は評定の主催者でもあった。
御成敗式目の末尾には、評定衆一同が署名し、原告・被告が自分と親しいかどうか、好きか嫌いかなどを判決に影響させないことを誓っている。このように泰時は、御成敗式目を制定することで、評定による公平な裁判を実現しようとしていた。
泰時の「大岡裁き」
では泰時がガチガチの堅物で人情味がないかというと、そんなことはない。弘安6年(1283)に成立した仏教説話集「沙石集(しゃせきしゅう)」に、次のような逸話が見える。
九州のある国の地頭が経済的に困窮し、所領を売却した。経済的に余裕があった嫡男は所領を買い戻して父に返してあげた。しかし父である地頭が死んだ時、所領を嫡男ではなく次男に譲った。これに怒った嫡男は鎌倉にのぼって訴訟を起こした。こうして兄弟で裁判を争うことになった。
兄は不憫ではあるが、弟は父親からの譲状(ゆずりじょう、財産譲渡の事実を証明するために作成される文書)を持っている。判断に困った泰時は法律の専門家に諮問した。「兄はもともと嫡男であり、また幕府に奉公していた者です。しかし子として父に尽くすことが孝養です。幕府に奉公しても、それは他人に尽くしたにすぎず、親孝行とはいえません。弟が父のために孝行を尽くしたからこそ、父は弟に所領を譲ったのでしょう。ですから弟の主張の方に理があると思います」との返答だった。
けれども、兄を気の毒に思った泰時は、自分の元に置いて衣食の世話をしてやった。2、3年後、兄がかつて住んでいた国で、所有者がいなくなった所領ができた。父の遺領より大きな土地だったので、泰時はこの所領を兄に与えることにした。
現地に下ることになった兄に、泰時が馬や鞍を与えて「妻を連れて行くのか」と尋ねたところ、「この2、3年、妻には苦労をかけましたので、連れて行って十分に食べさせてやろうと思います」と答えた。泰時は「立身すると苦労を共にした妻を軽んじる男が多い中、感心である」と言って、妻の分の馬や鞍も与えたという。
正しきものが報われるのが道理
上横手雅敬(うわよこてまさたか)氏が評するように、この逸話はいわば「大岡裁き」のようなものだが(『北条泰時』吉川弘文館、1988年)、裁判で強引に兄を勝たせるのではなく、弟を勝たせた上で兄の面倒を見た点が重要である。御成敗式目によれば、親の所領処分権は絶対であり、いったん子に譲った所領を無条件で取り戻すことさえできた。御成敗式目の条文に従う限り、弟を勝たせるしかない。この点で泰時は情に流されず、公平な裁きを行ったといえる。
けれども、裁判に負けた兄の方が、結果的には得をしている。「沙石集」によると、泰時は常々「道理ほど面白きものなし」と語ったというが、正しきものが最後には報われることこそが泰時の考える「道理」であった。
もっとも上記の説話は創作かもしれない。だが泰時が公平で、かつ情け深い名君であると、鎌倉時代の人々に認識されていたことは間違いない。
※『武士とは何か』より一部を再編集。