“吊り出し”で知られ、人生を宗教にささげた力士・明武谷 「エホバのご意志を知ると…」相撲を諦めた理由は(小林信也)

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安倍晋三少年も応援

 明武谷は身長1メートル90センチ。筋肉質の体にぜい肉らしきものは見えない。いまそのような力士は幕内にはいない。ソップ型と呼ばれる力士でも筋肉の上に脂肪の厚みをまとっている。ところが昔は、明武谷のような筋骨隆々の猛者がいたのだ。

 明武谷といえば、吊り出しのほかに「うっちゃり」がまた十八番だった。出足に勢いのあった北の富士に土俵際まで押し込まれ、懸命に残った末に右へうっちゃった相撲がある。相手にすれば、最後の最後まで気が抜けない、明武谷は厄介な相手だった。

 大関には昇進できなかったが、関脇5場所、小結8場所を務め、殊勲賞、敢闘賞を各4回受賞し、準優勝も4回を数える。そしてまた、明武谷は思わぬところで名前の挙がる存在感のある力士だった。

 大鵬が亡くなり、国民栄誉賞が授与された時、安倍晋三首相(当時)が取材で明武谷の名を挙げた。スポニチは次のように書いている。

〈首相は「巨人、大鵬、卵焼き」の流行語が生まれた1960年代に少年時代を過ごし、「卵焼きは好きだったが、巨人も大鵬もアンチだった。“大鵬キラー”と言われた関脇・明武谷は背が高く細くて、私もやせっぽちの子供だったので応援していた」と述懐。その一方で「アンチでも大鵬は気になる。大鵬との取組を手に汗を握って応援していた」と明かした。〉(2013年2月1日付)

 私は、仁王立ちの格好のまま手をおろさずに立ち、胸と胸とでぶつかる明武谷の時代の立ち合いが好きだ。いまは両手をつくよう厳しく求められ、頭で激しく当たる相撲が多くなる。

“エホバのご意志”

 明武谷は、69年11月場所を最後に引退すると、年寄・中村を襲名。宮城野部屋の親方として後進の指導にあたった。が、約7年後の77年1月場所後に廃業した。相撲界を離れたのは妻に続いて入信した「宗教上の理由」だ。ものみの塔オンライン・ライブラリーには、次のような明武谷の回想が記載されている。

〈私の最初の願いは、クリスチャンになっても、収入が保証されている相撲協会にひきつづきとどまることでした。エホバのご意志をより正確に知るようになると、それは不可能であることが分かりました。(中略)終始儀式の伴う相撲は、神社の境内で行なわれた事柄に由来します。前途有望な力士がその宗教的な面を考えることはほとんどありませんが、それでも相撲を神道から切り離すことは不可能です。

 そこで私は1977年1月に相撲協会から身を引く固い決意をしました。〉

 廃業後は会社に勤めながら布教にあたり、後にビル清掃会社を共同経営し、3人の子を妻と育てた。

 太く濃い眉、彫りの深い顔立ち。明武谷は、浅草寺の宝蔵門に安置されている金剛力士像(64年3月、錦戸新観作)2体のうちの「吽形(うんぎょう)像」の顔のモデルだという。いまも浅草を訪ねたら、若き日の明武谷の面影に会うことができる。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

週刊新潮 2022年11月20日号掲載

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