「岸田首相」は実は、これまで決断をしたことがなかった

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外相を4年半もやって

 加えて、

「岸田さんはあの頃に幹事長をやっていた石原伸晃さんに相談の電話をしょっちゅうしていました。石原さんはあの性格だから、岸田さんの電話に舌打ちしたりして、“あいつは何も決められない”とこぼしていたことがありました」(同)

 自民党が政権を奪還し、第2次安倍内閣が発足すると外相に就任。以降、4年半にわたってその座に留まり、その後に政調会長となった。

「安倍さんは対中・韓では一歩も引かない厳しい姿勢を貫こうとしていましたから、バランスを取る意味でハト派の宏池会会長である岸田さんを外相に据えておくのは好都合だったのだと思います。外交は、地球儀を俯瞰すると標榜した安倍さんの独壇場。言われたことに反対せずイメージが良い人なら安倍さんは誰でも良かったのでしょう」(同)

 当然、外相として決められることなど何もなかったはずだ。

「当時から岸田さんは次期首相への思いを隠すことなく、安倍さんからの禅譲を狙っていました。外相を4年半もやったのもそのためですが、一方でどこかのタイミングで閣外へ出て、自民党幹事長ポストに就きたいと安倍さんにも直接伝えていたようです」(同)

 しかし、その座に歴代最長期間、居座っていた二階俊博氏にそれを阻まれ続けた。

政権生みの親の安倍氏

 結局、幹事長になれないまま政調会長を続け、2020年9月に出馬して菅氏に敗北。犬猿の仲とされる菅氏は岸田氏を要職から遠ざけたが、その菅氏自身が1年後に退陣。それを受けての総裁選で岸田氏は「聞く力」をアピールし、二階氏に匕首(あいくち)を突きつけるように党役員の任期上限にまで踏み込んだ。

「決断できないと同様、ケンカのできない岸田さんと言われてきたのですが、あのシーンは永田町で驚きの声をもって迎えられましたね」(同)

 それが奏功したのか総裁選を勝ち抜き、首相就任後の解散でも予想以上の勝利を収めた。

「結局、総裁選をコントロールしていたのは安倍さんでした。対抗馬の河野太郎さんに勝たせないために勝ち馬を探っていて、それに乗ろうとしていた。党内最大派閥のメリットを遺憾なく発揮して勝利した暁には人事で優遇してくれという密約ですね。安倍さんが岸田政権の生みの親であることを否定する永田町関係者は一人もいないでしょう」(同)

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