「岸田首相」は実は、これまで決断をしたことがなかった
国対委員長時代に
「決めたはずのことがブレて定まらず、結局、何をやりたいのか見えない」と手厳しい指摘が続く岸田文雄首相の政権運営。特に、山際大志郎、葉梨康弘の両大臣を更迭する判断が遅れ、混乱をきたした。とにかく決断できない男はいつからそうなったのか。岸田氏のこれまでを紹介しながらレポートする。
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「岸田さんは元々、全体を引っ張っていくカリスマ的魅力には乏しく、とにかく何も決められない人というイメージが強かったですね」
と、政治部デスク。
「自民党が下野していた間の2011年9月から1年間、岸田さんは国会対策委員長を務めていました。鳩山、菅、野田と首相の首がすげかわる度に民主党は支持率を下げ、自民が息を吹き返していた頃でした。12年8月には野田首相から“近いうち”に解散との言葉が出て、“いよいよ”の機運が高まっていました」(同)
党に持ち帰る
国対委員長といえば、55年体制崩壊以前は「談合政治の象徴」などと評されたものである。
「もちろん現在はそういった色合いは失せていますが、それでも対立する与野党が顔を合わせて話し合う最前線ですから、人間関係がものを言う。汗もかくし、不勉強をなじられて恥もかく場面もあるでしょう。温室育ちの岸田さんにはあまり似合わないポジションではありましたが、だからこそ経験しておくことで後の政治家人生に生きるという見方もないわけではなかった」
と、自民党の国対関連ポスト経験者。
ちなみに自民党の国対委員長経験者で首相になったのは宇野宗佑、海部俊樹の両氏のみだが、首相の座に手をかけながら病に倒れた安倍晋太郎元外相や首相を超える権力を誇示した金丸信元自民党副総裁もその系譜に連なっている。
話を岸田国対委員長時代に戻すと、
「与党・民主党との折衝の後、懸案が出ても、岸田さんはその場で決められず“党に持ち帰る”という返事が多かったようです。そんなに持ち帰るばかりなら国対で話し合う意味がないわけですがね」(先のデスク)
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