「MLB断念」菅野智之に“温室育ち”のレッテル? “生涯巨人”で「監督当確」の声
「もうメジャーで投げることはない」
プロ野球巨人の菅野智之投手(33)が来季も巨人に残留することが決まった。2020年オフは、ポスティングシステムによるMLB挑戦を目指しながら条件面などで折り合わずに断念。海外フリーエージェント(FA)権を初取得した昨オフに続き、今オフも行使はせず、「生涯巨人」が確定的になった。米大手マネジメント会社の代理人がつぶやく。
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「巨人残留は予想通りだった。20年オフにはメジャー6球団ほどがオファーを出し、中にはかなりの好条件があった。31歳で渡米時期は年齢的に限界に近かった。あの時、あの条件で挑戦しなかったのだから、今オフに渡米するとしたら、よほどのことが起きて心変わりしたとしか考えられなかった。菅野がメジャーで投げる姿を見ることはもうないだろう」
菅野は原辰徳監督の甥っ子であり、原監督の父・貢氏は祖父に当たる。東海大相模高から東海大と伯父と同じコースを進み、「原家の秘蔵っ子」としてアマ球界屈指の投手に成長した。
2011年のドラフト会議、他球団が相思相愛だった巨人との関係を忖度し、菅野の指名を避ける中で日本ハムが1位での強行指名に至った。巨人との抽選の結果、交渉権も獲得。だが、菅野は入団を拒み、1年間の浪人の末に翌12年、晴れて巨人の単独1位指名を受けた。
古くは江川卓、元木大介、内海哲也ら他球団入りを拒否してまで巨人入りした選手には批判が付きまとった。プロ入り時には「それほど値打ちを付ける選手なのか」などと球界やメディアから色眼鏡で見られてきた。
しかし、そんな負のイメージを、菅野は次々と打破していった。ルーキーイヤーの13年に13勝(6敗)を挙げると、14年に最優秀防御率で初タイトルを獲得。同タイトルに4度輝き、最多勝は3度、最多奪三振は2度、特に18年にはこれら主要3部門を総なめにした。
沢村賞、MVPはともに2度と名実共に球界ナンバーワン投手の座に就く。国際大会でも17年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)ではドジャースタジアムで行われた準決勝の米国戦に先発し、6回を被安打3自責点0の快投を演じた。日本は敗れたものの、米国代表の名将ジム・リーランド監督に「メジャークラスの投手」と言わしめるなど本場で鮮烈な印象を残した。
「相手がアメリカだったので、余計に脚光を浴びた。当時27歳。巨人はまだポスティングを認めていなかったが、菅野の評価はあの頃がピークで、一年でも早い渡米が待望されていた」(前出の代理人)
巨人の「居心地の良さ」
巨人は19年オフ、山口俊投手に対し、球団史上初めてポスティングによるMLB挑戦を容認した。山口はFAでDeNAから移籍してきた投手だった。ポスティング第1号が生え抜き選手では衝撃が強いため、きたるべき菅野のポスティング移籍へ布石を打ったとも囁かれていた。果たして翌年オフ、巨人は満を持して菅野のポスティング移籍を認めたのだが……。
運命は新型コロナウイルスに翻弄された。
「菅野サイドは(19年に)菊池(雄星)がマリナーズ入りした際の4年総額5600万ドル(約61億円=レートは当時)と同等以上の契約が希望だった。しかし、20年のメジャーは新型コロナの影響でシーズンが60試合に短縮され、21年も通常開催が実現するかどうか不安視されていた。20年は年俸が試合数に比例して減額され、菅野は先が見えないことを気にしていたようだった」(同代理人)
同時に巨人からは4年契約で、1年ごとに契約が破棄できる好条件の提示を受けていた。
「さまざまな不安要素がある中、見切り発車で渡米したくなかったのだろう。しかし裏を返せば、菅野は何が何でもメジャーではなかった。伯父である原監督は巨人で編成を含め全権を握っている。居心地が良い環境は決断できなかった要因になったのではないか。その後は徐々に力が落ち、米球界関係者の間でも期待度は萎んでいった」(同)
さるセ・リーグ球団の打撃部門のコーチが証言する。
「菅野は試合で降板する際にしきりに足(の状態)を気にすることがあるなど、(不調の)言い訳をするような仕草が見られることがある。うちは以前から本当のメンタルの強さには疑問符を付けていた。結局、メジャーを断念したのも、プロ入り時もそうだったように、巨人に守られ続けた『温室育ち』が抜け切らなかったことが大きいのだと思う。巨人では桑田(真澄)さんや上原(浩治)が全盛期を過ぎてもメジャー挑戦した好例があった。菅野は一度しかない選手生活で、最高峰の野球を経験しなかったことに悔いを残すのではないか。いい投手だけに、もったいない」
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