木村拓哉50歳になっても「奇跡の人気」を誇るのはなぜか イベントに100万人集めた力を徹底分析

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キムタクと呼ばれること

 ただ本人は、20代の頃、キムタクと呼ばれることが嫌だったと振り返る。

「20代の頃は、すごくイヤだったんですよ。『キムタク』って呼ばれるのが。人なのに商品ぽいっていうか。店頭に並ぶ商品と同じ存在になった気がして」(*1)

 この「キムタク」と呼ばれることによる“商品扱い”への反発は、今になって始まったものではない。

『ロングバケーション』が放送される直前の1996年2月当時のインタビューで既に「キムタクっていうのは、メディアというフィルターを通ったり、何らかの他の人の力が加わったときに出てくるものでしょ。ま、一言で言っちゃうと商品だよね」と木村拓哉本人と商品としてのキムタクを分けて語っている。(*2)

 キムタク大ブームの最中から違和感を語り、商品としての自分を冷静に見つめたり、ときに商品化されることを拒んだりするような姿勢を見せていたのである。
その商品であることを拒む姿勢が、木村拓哉の強さであり、“キムタク”を一過性のブームで終わらせなかった一因となっているのではないだろうか。

 それこそ、先に触れた木村のアルバムは、通例、発売時期におこなわれる歌番組への出演なども抑えられ、過度なプロモーションはおこなわない、商品というよりも作品に近い届け方になっている。

“ワル哉くん”だった

 アイドルというものが事務所によってパッケージングされる“商品”だとすると、そのアイドルらしからぬ言動は同性の支持を集める要因ともなっていただろう。

 木村は、始まりからしてアイドルになることを拒むという“不良性”を持っていた。
入所は15歳~16歳の頃だが、木村の履歴書を事務所に送ったのは本人ではなく、親戚。そして本人はオーディションを3回も“バックれ”ている。
最終的には「やりたくてもできない人たちがいる」と促され、4回目にしてオーディションに向かうが、当時の自分を木村は“ワル哉くん”だったと振り返る。(*3)

 入所後、木村拓哉が慕うようになったのが、3歳上の男闘呼組の岡本健一だ。男闘呼組の原宿での生活スペースに出入りしていたという木村。(*4)
男闘呼組の主演映画『ロックよ、静かに流れよ』は10回以上見てカット割りも覚えているという熱の入れよう。(*5)岡本健一が髪を切っている美容室も聞いて通っていた。(*4)

 さらに岡本に影響を受け、金髪メッシュにしたという木村。だが、それで光GENJIのコンサートのバックに行くと、ジャニー喜多川に「YOU最悪だよ」と言われて頭に黒スプレーをかけられたという。

岡本健一のアドバイス

 その後、岡本健一は、木村拓哉のことで事務所のスタッフに呼び出されたことがあった。

「拓哉があなたの真似をして髪を伸ばしたり、メッシュを入れたり、ピアスしたり、悪い影響を受けてるから、あなたからやめなさいって言って。そうすれば彼は更生すると思うから」と、木村拓哉の更生を頼まれたのだという。

 だが、ちょうど木村が売れかかっているタイミングだったといい、岡本は木村にその事務所の更生プランを告げた上で「今、ガンガン来てる感じのときだから、いま好きなことを全部やれ。伸ばしたかったら膝まで伸ばせ。絶対切るな」というアドバイスをしている。(*4)

“売れることで得られる自由の味”を伝えた岡本。皆が知っているロン毛の木村拓哉は、もしかしたらこの岡本健一の不良性肯定アドバイスがなければ存在しなかったかもしれない。実は、先月の男闘呼組の29年ぶりの復活ライブの初日にも木村は駆けつけていた。

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